全国有数の福祉充実都市にあるタワーマンションで難病を患う10歳の娘の人工呼吸器を外し窒息死させた37歳の母親が殺人罪に問われた事件について、裁判所は懲役5年・執行猶予7年の有罪判決を言い渡した。被害者の真希さんは国指定の難病で、生まれてから自発呼吸ができず、24時間体制の人工呼吸器やたんの吸引などの医療的ケアが必要だった。
母親が子殺しという凶悪な事件を引き起こしたのは、クリスマスの朝のこと。華やかなクリスマスの飾りつけや、どこか浮き立つような空気に包まれる朝でさえ、この母親の心は、砂漠のように乾ききっていた。きらびやかな高層マンションの窓から差し込む朝日も、彼女の心の隙間を埋めることはなかった。ただ静かに、誰にも届かない悲しみと孤独が、ゆっくりと胸の中に沈んでいく。誰もが幸せそうに微笑む季節に、その微笑みの輪の外側にいる自分を、彼女は、ひときわ鮮明に感じていた。その背景には、日々の厳しい介護や精神的重圧とともに、「夫の不満な口のききよう」が静かに心を蝕む現実がある。
疲れ切った母親は、クリスマスイブの夜に夫婦のスキンシップ(触れ合いやハグ、手をつなぐ、キス、性的な親密さ)を求めた。いつも褒めてくれた父親に電話でもいいから、励まされたい。心から「よくやってるよ」と優しい言葉でほめてほしかった。
なのに、夫にも父親にも梯子を外された。
行く手を遮られ、冷酷に追い払われた気がした。思いを伝えるたび、行く先に立ちはだかる見えない壁にぶつかり、
温かい言葉や寄り添いを求めたその瞬間、
まるで自分だけが取り残され、
冷たい風に押し戻されるような気持ちになる。
何度も扉をノックしても返事はなく、
すぐそばにいるはずの人の背中が、
ひどく遠く、冷ややかに思えてしまう――
そんな時、人は誰でも
「自分には受け止めてもらう価値がないのだろうか」「このまま一人ぼっちなのだろうか」
と切なく、孤独で心細くなるもの。
実際、この子殺し事件の公判では「事件直前のクリスマスイブの夜に夫と口論したこと」が子殺しを考える引き金だった。
障害児の母親という重荷ばかりではなくて、出来損ないの妻、女として日に日に衰えていく容姿、人生設計に失敗した恥さらしな娘という最悪な評価が心の中で繰り返し響き、自尊心や生きる意味、希望を奪っていく。
地元のお嬢様学園を首席で卒園した後、都市銀行に勤務し、若くして課長代理の社会的地位に就いた夫に見初められ、勝ち組として職場結婚に及んだ。出産まで順調に歩んできた人生が、たったひとりの子どもを産んだ瞬間を境に「汚名」として塗り替えられる。障害児の母親となったせいで、彼女の努力や意思とは無関係に、評価を書き換えられ、偏見にさらされる現実。
この子はもういらない。もう一人産みたい。次の子は失敗しないから。
この子さえいなくなれば。この子がこの世から消滅すれば、私はまた元の私に戻れる。
だから、いらなくなった子の呼吸器を外して、多量の睡眠薬を飲んだ。でも、睡眠薬では死ねないこともわかっていた。
私をこんなに苦しめるこの子は悪い子だわ。お仕置きしなくては。きつくきつく。もう二度と母親を困らせない子にしなくては。これは母親だけの特別な権利なのよ。わかるはずよ、きっと。それでこそママの娘よ。
この母親の心の闇に隠された目先の快感の分身が快感系の異常動作を惹き起こした。愛情、安心、安全の感情に寄与する脳の神経部位が過剰に刺激された状態で、「わが子を殺すことで、自分の現実を破壊する」行為が逆説的な快感=バッドイメージとして立ち現れたのだ。うつ病の深層において、神経レベルの“快の錯乱”が起こっていた。身体的・精神的な欲求が満たされたときに感じる、非常に心地よい圧倒的な喜びや満足感が湧き上がった。恍惚に心を奪われ、うっとりして意識が曖昧になりそうなほど満たされた感覚、幻想的な陶酔状態にあった。「現実を忘れるほどの没入」や「意識がぼんやりとするほどの高揚」を味わった。
夕陽が差し込む部屋、やがて宵闇に包まれていく静かな空間。機械の静かな電子音だけが、そこに残されていた。
静かに、しかし確実に点滅を止めた呼吸器。その瞬間、母親の時間は止まった。
手のひらに残る子どもの体温が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「これで楽になれたのでしょうか」
自分に問いかけても、答えはどこにもない。
周囲の喧騒も、やさしかった看護師や介護福祉士たちの言葉も、何も聞こえない。
母親だけが、誰にも伝えられない絶望の底に沈み込んでいく。
後悔も、悲しみも、愛しさも、罪悪感も、すべてが渦巻く。
「許されるはずがない」。
そう呟きながら、母親はただ、永遠に抱くことのない子どもの名を、静かに心の奥で呼び続けた。
その絶望には、終わりも救いもなかった。