山田すみれ――彼女は前期高齢者となった今も、心のどこかで「少女のまま」時が止まっている。
強い自閉症の障害を抱え、世間や社会の“常識”と上手に折り合うことができない。
かつては町内の民生委員として、細やかに人の暮らしに目を配っていた。
しかし、完璧主義のリーダーからの度重なる非難に、やがて彼女の心は悲鳴をあげる。
誰にも理解されず、押し黙る日々。何を喋っても「嘘つき」と影口を叩かれ、ついにはうつ病と診断されてしまった。
居心地のよいはずだった団地も、不信の声に追われるように去ることを迫られている。
いま、すみれは小さな心と身体で「せっぱつまった」日々の町を、ぶらぶらとさまよっている。
――それでも、彼女は時折、ぽつりと口にするのだ。
「どうにかなるでしょ」
その一言に、少女のころから変わらぬささやかな希望と、やさしい強がりがすべて詰まっている。
期限付きの事故物件を転々とする日々――
山田すみれの暮らしは、かつての「町の人」の顔も、名前も、色あせてゆく日々の連なりだ。
もう、勤労意欲はすっかり消えてしまった。
仕事がしたいとも思わない。
障害年金とわずかな生活保護、それだけがいま唯一の生活の支え。
古びた間取り、薄暗い廊下、住む人の記憶がまだ部屋に残るような“期限付きの部屋”を渡り歩きながら、
どうにかして、今日も自分の心の居場所を探す。
それでも彼女は、静かにこうつぶやく――
「どうにかなるでしょ」
けれど、お金が支給されたその日だけは、ふらりとバスや電車に乗る。
降り立った町の風や声や、知らない景色に包まれながら、すみれはただ歩き続ける。
自分の名前を呼んでくれる人はいない。
戻るべき道さえ、途中で分からなくなるのに――
気がつけば、またいつもの部屋に、自分はぽつりと帰り着いている。
「二度とここには戻りたくない」と、あれほど思っていた部屋なのに。
日付の消えたカレンダー、古いガラス窓、
そこにただ佇みながら、今日もすみれは心のどこかで、
「どうにかなるでしょ」と、自分に静かにつぶやいている。
ひたすら歩き続けていたすみれは、交差点を曲がった瞬間、不意に自転車とぶつかりそうになった。
「危ない!」という声に、すみれは思わず立ち止まり、胸をおさえた。
ドキドキする心臓の音を感じながら、ふっと思う。
――もう今日は、歩くのはやめておこう。
「今日は歩かずに電車に乗ろう。」
そう心の中で決めて、すみれは道端から駅へ方向を変えた。
ホームのベンチで足を休め、次の行き先も決めずに、静かに電車を待つ。
車両の窓越しに見える景色の流れに身をゆだねながら、また「どうにかなるでしょ」とつぶやいた。
ふと、すみれは自分が今日、何も食べていなかったことに気づいた。
お腹がきゅうっと鳴る。
「ぐつぐつ煮えた鍋焼きうどんが食べたいなあ」
そんなことを考えた瞬間、生唾がじわっとこみあげてきた。
懐かしい味――優しい湯気に包まれてみたい、と、すみれは思った。
でも、そのまま俯きがちに自動販売機のコーヒーで空腹をごまかす。
どこかにあたたかい光と、ぐつぐつと煮える鍋焼きうどんの匂いが漂う場所はないだろうか、と、夜の町を見つめた。
あたりはもうすっかり暗くなっていた。
すみれは発作的に改札口を出た。
どこを目指すでもなく、ただ温かいものに引き寄せられるように。
駅前は、仕事帰りの人たちや、家路を急ぐ学生たちでごった返している。
すみれは、その流れに逆らうようによたよたと歩いた。
何人もの急ぎ足の歩行者とぶつかりそうになり、時には小さく体よけるだけで精一杯だった。
足元はおぼつかなく、心もふわふわと定まらないまま――
光と雑踏のなかに、すみれの小さな影だけが、夜の道に揺れていた。
どこに向かうでもなく、ただ放浪するように、すみれはよたよたと歩き続けた。
誰のことも気にかけず、ただ――鍋焼きうどんのあの温かい湯気だけが、心のどこかで灯のように揺れていた。