アガサ・クリスティーのミステリー小説を愛する少女・千里は、夏の終わりにイギリスを旅していた。彼女の憧れの地、パートラムホテルの大ラウンジで、背筋をピンと伸ばして紅茶をすする。「シードケーキって、初めて食べたけど美味しい」。淡い午後の光が差しこむロビーで、薔薇色のソファに腰かけ、窓の外に続く白樺並木を眺めながら思う。「これでミスマープルが現れたら最高なんだけど。もし生きていたら何歳だろう?」
パートラムホテルは優雅な古風を残すイギリスの館。そのラウンジでは、午後3時になると地元で愛されてきた焼き菓子と香り高い紅茶が振る舞われる。千里の懐かしい味は、祖母の家を思い出す「渡良瀬ブランマンジェ」。淡いピンク色のお菓子を口に運ぶと、郷里の渡良瀬川や橋の風景が心によみがえる。
窓辺では、ひとりの老婦人がオカリナを奏でていた。その曲はホテル中にやわらかに響き、失恋したばかりの千里の胸にも静かに沁み入った。「そうだ、渡良瀬橋のたもとで待ち合わせた春の日も、あんな音がしていた‥‥」。淡い恋が終わった夕暮れ、川風の中で流した涙さえ、今は思い出のやさしさに包まれる。
やがて千里は勇気を出して老婦人に話しかける。「あの…とても素敵な曲ですね」。
老婦人は穏やかに微笑み、お菓子を一切れ、千里の皿に分けてくれる。「失くしたものも、思い出も、悲しみも――お茶の時間にそっと混ぜてみれば、不思議と心は温かくなるのよ」と言って。
老婦人は静かに語った。「あの曲は、若き日の思い出なの。かつて私も、遠くの町から夢と憧れを抱いてこのホテルを訪れたわ。あの時も、オカリナを吹きながら窓の外を眺めていた。若い芸術家と恋に落ちたけれど、恋は静かに終わった。でも、別れの記憶も、郷里の渡良瀬橋に似た川辺の風も、オカリナの旋律とともに今も心で生きている。悲しみも、音楽とお茶とお菓子に混ぜてしまえば、幸せの種になるのよ。」
お茶をすする午後。窓の外には、遠い渡良瀬の空を思わせる薄紫の夕雲が浮かぶ。千里はもう一度、オカリナの音色に耳を傾け、静かに微笑む。「この場所も、郷里も、私のなかでちゃんと輝いていくんだ。」
千里の描く詩の世界:
黄昏 ロビーの隅に
遠き日の旋律が舞い降りる
やわらかなオカリナの音
少女は耳を澄ます
ひんやりしたシードケーキ
ふるさとを思い出すブランマンジェ
幼い日の恋も痛みも
紅茶の香りに包まれて
老婦人の指先に
想い出の川が流れる
夕映えの雲はふたりをつなぐ
郷里の渡良瀬、遥かなパートラム
「悲しみよ、さようなら
微笑みよ、こんにちは」
今、心の窓辺に
新しい風がやさしく吹く
「ミスマープルと渡良瀬橋の黄昏」
――郷愁と思い出がやさしく交わる、少女と老婦人、ふたつの旅路の物語。