「大人の少女の隠れ家」をテーマに掲げるカサブランカ出版社は、日本で出版社が最も多く集まっている「本の街」、神田神保町の一角に本社を構えている。 風がページをめくるように、本屋とカフェと印刷所が混在する情緒あふれる街並み――その中で、カサブランカ出版社の社屋には、どこか秘密めいた温かさが漂う。
編集者の甘夏栄太郎は、そんな街の喧騒を背に、今日もデスクで一人、孤軍奮闘していた。
彼が担当しているのは、二人のまったく異なる個性の女性作家。どちらも“大人の少女”という自分らしい世界観を持ち、それぞれ読者の心を捉えてやまない。栄太郎は、二人の才能と向き合いながら、仕事と人生―そしてまだ知らない「物語の続き」を追いかけている。
その日の午後、甘夏栄太郎は、打ち合わせのために横浜駅へと向かっていた。
シァル改札口を抜け、駅ナカ商業施設の賑わいの中をすり抜けた先、目の前の通りを渡る。
道路の向こう側には、ガラス張りの外観がひときわ目を引く、白い外壁と大きな窓が印象的なデザイン。4階建てのモダンな集合住宅兼クリニックビル――白い外壁と大きな窓が印象的なデザインの自宅と歯科クリニックが一体となった萩尾家の建物が待っていた。
栄太郎は肩からショルダーバッグを掛け、少し汗ばんだ額をぬぐいながら、ゆっくりその建物のエントランスに向かって歩いて行った。
今日もまた、「物語」の種を拾い集めるように、彼は、大人の少女たちの隠れ家――創作の現場へと一歩踏み出してゆくのだった。
1階は萩尾歯科クリニックの受付と待合室。
ガラス張りの自動ドアを入ると、明るいウッド調と観葉植物が並ぶ爽やかなロビー。
奥には診察室が3つ、最新の歯科医療機器が並ぶ。
午前9時にはいつも、白衣姿の院長・萩尾千鶴(はぎお ちづる)先生が明るく患者さんを迎えている。
窓からは横浜駅の活気と、季節ごとに変わる街路樹の眺め。
通勤や通学に便利な立地だから、患者さんも家族連れやオフィスワーカーまで幅広い。
萩尾歯科クリニックは自社ビルで、フロア構成は、1階が萩尾歯科クリニック(受付・診療室など最新設備が完備されている)
患者専用の屋内駐車場は、防犯カメラと自動ゲートが付いている。
2階は、医院長夫妻と子供2人が暮らす4LDKファミリー住戸で、広めのリビングダイニング、2つの子供部屋、主寝室、和室1室、バスルーム、バルコニー。
3階は、院長の両親の「終の棲家」で、和風モダンな2LDK。和の趣あるリビング、畳の居間、バリアフリー設計で、隣接のルーフバルコニーには竹垣で囲まれた和風庭園と小さな池があり、季節ごとの植栽が楽しめる贅沢な外空間。
4階は院長の実妹・SF作家萩尾拓子の仕事場・アトリエ兼1LDK住戸で、ワークスペースと書庫、大きなデスクや壁一面の本棚。
クロークロゼットとミニキッチン付きで、小規模ながら天窓や眺望のよいバルコニーもある。
建物全体でセキュリティ・プライバシーが配慮されており、全館エレベーター+オートロック。
四季折々のグリーンとアートが共存するアプローチのほかに、各階に専用インターフォンが設置されている。
横浜の街ナカに根ざした理想的な「多世代・多機能融合住宅」といえるだろう。
甘夏栄太郎は、1階の歯科クリニックの奥にあるエレベーターホールに足を踏み入れた。ボタンを押して静かにドアが閉まると、上昇していく箱の中で、彼は手にした原稿ファイルをぎゅっと抱え直す。
4階に到着。
落ち着いた色合いの廊下の突き当たり、SF作家・萩尾拓子のアトリエの前に立つと、彼は一呼吸おいてからチャイムを鳴らした。
萩尾拓子の台所は、作家の仕事場らしく静かで洗練されている。しかし、そこにあるのは料理の道具ではなく、マルコポーロやフォションといったブランド紅茶の缶、色とりどりのサプリメントの瓶が美しく並んでいるだけ。
食器棚にはウエッジウッドのティーポットと紅茶カップ、それに銀のスプーンしか置かれていない。自分で食事を作るという習慣はなく、「食」はもっぱら家族とのコミュニケーションの場。
原稿に煮詰まると、ふと思い立って階下へ。3階の和モダンなフロア――優しい母親が手間ひまかけて作っただしの香り漂う和食、だし巻き卵や季節の魚料理が、ほっと心と体をほぐしてくれる。
あるいは2階では、義理姉が作る洋食のディナー。質素だけれど心温まるグラタンやハンバーグ、食卓を囲む家族の笑い声が、彼女にちょっとした休息をくれる。
「食事を作らない」という選択を、家族とともに暮らしているからこそ自然に受け入れている拓子。
けれど、一日のどこかで必ず、近所のコーヒー専門店にもふらりと足を運ぶ。店内に漂う焙煎したての豆の香りと、丁寧に淹れてくれる一杯のコーヒー——それは彼女だけの贅沢な時間だった。
しかし、今は、そんな悠長なことは言ってられない。
栄太郎は、拓子のアトリエに入った瞬間、ただごとではない空気を察した。
机の上には書きかけの原稿と、読みかけの小説や紅茶のカップ、空になったサプリメントの瓶が散乱している。
バルコニーのそばで、萩尾拓子が両手で顔を覆いながら、涙をぽろぽろこぼしていた。
「書けないのよう、もう、私、死んでしまいたい。このバルコニーから飛び降りてしまおうかしら?」
まさに修羅場だった。弱音とも、本気ともつかぬ声。その悲壮な泣き方に、栄太郎は慌ててキッチンへ走り、ケトルに水を注いで火にかけた。
「拓子先生、そんな弱気なことでどうするんです?」
「あと何枚ですか?」
声にハリを持たせて言うと、拓子は涙をぬぐいながら、うつろな目のまま手を上げる。
「一枚よ」彼女は指を一本、ぐっと突き立てる。
栄太郎はほっと安堵の笑顔を浮かべる。
「なんだ、あと一枚ですか? あはは、大丈夫ですよ!僕が付いてるじゃないですか!」
だが拓子は、ますますしゃくりあげて詰まった声で言った。
「違うの、まだ一枚描いただけなの」
力なく肩を落として、シクシク泣き始める。
栄太郎も思わず遠い目になった。「〆切は明日ですよ。あと20枚どうするんですか?」
(〆切は明日……あと20枚どうするんだ……)
内心で栄太郎も泣きたくなる。
湯気が静かに立ち上るアトリエで、編集者と作家、ふたり分のため息だけが静かに空間に溶けていった。
SF作家・萩尾拓子は、“少女と希望”をめぐるディストピアSFを得意とし、その作品世界は少女や若い女性の間で熱狂的な支持を集めている。彼女の小説は、現代社会の消費主義、アイドル文化、テクノロジー、そして人間らしさや救済のテーマが交錯する独自の雰囲気を持つ。代表作には、「プリキュア・リセール:ゾンビ街の福音」
“希望のアイドル”=プリキュア型アンドロイドを消費し続ける都市。
少女たちは表社会ではアイドルに憧れ、裏社会では再販や転売されるアンドロイドに依存して生きる。
やがて都市を襲う“死霊ウイルス”と戦う、魂を持つ少女たちの叙情的サバイバルSF。
「感染領域キュア・デッドライン」
ゾンビ化現象が蔓延する未来都市で、癒しや救済までも“商品”として取引される時代。
プリキュア型のバイオ兵器少女たちが、「癒し」という役割と自分の運命との間で揺れ動く姿を、静謐に、かつ予言的に描いた問題作など、多数ある。
ところが、今書いている「プリキュア・ラストオーダー ― ドグラマグラ症候群」で躓いている。
精神分裂と混迷が進んだ都市、制御を失った“旧型”プリキュア・アンドロイドが次々と死霊化して暴走。
そのなかで本物の心(自我)を獲得した少女型ヒーローの目覚めを、スリリングかつ哲学的に描きたいのに、どうしても書き始められない。
どうしよう~どうしよう?甘夏さん、私、もう書けないわ。
ふふふ、私ってダメな人間ね――。
壊れた機械みたいに、がくがく震える拓子。
その姿にさしもの甘夏もお手上げで、原稿のファイルをデスクに投げ出すと、あわてて部屋を飛び出した。
廊下を駆け、エレベーターで一階へ。
息を切らしながら駅の方へ走り出し、シァル改札口から横浜の町へ飛び出す。
たどり着いたのは、路面に面した小さな花屋「Bouquet à la carte」。
ガラス戸を開け放って、声をあげる。「桃井さん! 拓子先生の好きなカサブランカをブーケにして、今すぐお願いします!」
カウンターの向こう、花々に囲まれた桃井英恵が小首をかしげる。
「まあ、甘夏さん、どこから走っていらしたの? 汗びっしょりですよ」
「桃井さん! 拓子先生が…〆切にブチ切れて、壊れてしまったんだ。吸血鬼拓子に、今すぐ血液を!――じゃなくて、気分がよくなる花束をください!」
桃井店長は、驚きながらも優しく笑う。店内に立ちこめる花の香り――
桃井はにっこり微笑み、「お任せください」と手際よくカサブランカの大輪をまとめはじめる。
今、この街で一番優しい薬は、カサブランカの花束だった。
ガラス越しの夕暮れ、白く凛とした花びらが、薄闇にふわりと浮かんで見えた。
「それにしても、昨夜は地獄だったなあ――」
甘夏栄太郎は、窓に映る自分の顔をぼんやり見ながら、思わず小さくつぶやいた。
徹夜で萩尾拓子のアトリエに詰め、二人で紅茶と花束の香りにまみれながら、20枚の原稿を何とか書き上げてもらった。
深夜の叫び、バルコニーでの泣き崩れ、最後にはふらふらのままプリンターの音を聞いた――今思い返しても、ため息が漏れる。
朝になっても、着替えもシャワーもそこそこに、よれよれのまま出版社へ直行し、なんとか原稿を手渡してきた。
ようやく一息つけるかと思いきや、次の任務――鎌倉──。
今、横須賀線の揺れる車内で、栄太郎はぼんやりと流れる景色を眺めている。
もう一人の担当作家は、ミステリーロマンの旗手・矢口真理子。
彼女の新作原稿を受け取りに、このまま鎌倉の瀟洒な洋館を目指す。
空を横切る秋の雲――
その向こうで待つのは、また新たな「物語の修羅場」だろうか。
彼を迎え撃つミステリー作家の矢口真理子は、鎌倉の緑豊かな洋館で夫と静かに暮らしている。
その街は長い歴史をたたえ、静かな住宅街の片隅、彼女の家の窓辺からは四季折々の花と緑あふれる美しい庭が見える。
家の中には時代を感じさせるアンティーク家具と天井まで届くほどの蔵書。広いダイニングキッチンは、夫婦で料理や会話を楽しむための大切な空間だ。家族は夫だけ。
20歳年上の夫は慶應義塾大学で哲学・文学・ジェンダー研究を専門とする教授であり、穏やかで聡明なフェミニスト。日々の生活や小さな発見、知的な対話を何よりも大切にしている。
本格的な料理が趣味で、和食もフレンチも自由自在。休日になると、妻の執筆を応援するために腕によりをかけたディナーを振る舞う。
夫は再婚で、前妻は慶應義塾大学の時計台から投身自殺したという悲劇を抱える。
真理子の性格は自由で知的、気さくな女性だ。
論理と感性、現実と幻想を自在に行き来し、「大人の女性」のしなやかさと強さ、豊かな感情を作品に刻み込んでいる。
毎朝、庭のベンチで季節の移ろいを味わいながら、コーヒー片手に物語の糸口を探すのが習慣となっている。
KiKipediaには、次のように記されている。
矢口真理子
学歴・交友
慶應義塾大学文学部哲学科卒
ゼミは夫・小池教授が主宰する「小池ゼミ」の塾生だった。
ゼミ同期に萩尾拓子(後の人気SF作家・盟友)がいる。
作風
ミステリーロマン文学
女性の心理、女心の裏側や愛/死/再生を、叙情的かつ冷静で推理的な文体で描く。
私小説的な真実や痛みもミステリーの謎へと昇華し、深い共感と知的なカタルシスを読者にもたらす。
代表作・転機
夫の前妻が大学の時計台から投身自殺した実際の事件をも昇華し、「謎解き」として文学に刻んだことで、ベストセラー作家となる。悲しみや謎解きの力、希望と哀しみの間で揺れる女の運命を描写する名手。
矢口真理子の原稿は、もうすでにしっかりと封筒に綴じられて彼を待っていた。
そればかりか、「甘夏さん、頼まれていた夫の……いえ、小池教授のあとがき、お預かりしていますよ」と微笑んで手渡された時、栄太郎は、思わずその場で「ブラボー!」と叫びたくなる衝動を抑えるのに必死だった。
「真理子先生、本当にありがとうございます。どうか教授にもよろしくお伝えください」
深々と頭を下げ、感謝の気持ちを全身で表す。
そのまま軽やかな足取りで駅まで向かい、まるで“るんるんステップ”を踏んでいるかのようだった。
鎌倉発新宿行きの電車に飛び乗ると、彼は手にしたばかりの原稿を、車窓の光の中で丁寧に開いた。
ページをめくるたびに文字が踊り出し――今こそ、編集者として一番幸せな瞬間が巡ってきたのだった。
あとがき
――夫・小池慶応義塾大学教授より
朝、僕が目を覚ますと、妻は必ず僕のためにコーヒーを淹れてくれる。それでも、朝食を作ることはない女性だ。僕は香ばしい一杯を飲み干すと、すぐに電車に乗り、大学の研究室へ向かう。学食のカレーライスとAランチは、僕のお薦めメニューである。
僕が家を空けているあいだ、妻は書斎にこもって執筆したり、中庭で原案を練ったりしている。朝も昼もろくに食べず、「空腹な猫」のように、僕の帰りを待っていることが多い。
だから、僕は毎晩、仕事の手を止めて、妻のために真心こめて夕食を作る。その食卓には、うまいワインと何時間も続く夫婦の会話が並ぶ。食事のあとは、僕が皿を洗い、そのまま床もモップで拭く。
その間、妻は優雅に入浴タイム。入れ替わるように僕も湯船に浸かり、ようやく一日が静かに終わる。だけど、妻はきっと書斎で夜更かししている。徹夜する日も少なくないが、翌朝は必ず早起きして、豆から挽いた香ばしいコーヒーを淹れてくれる。
優しいのか、どうなのか…僕にもよく分からない。だが、彼女ほど「謎」に満ちた女はいない。たぶん、僕には決して解けないミステリーなのだ。