阿蘇くまもと空港から産交バスで2時間ほどかかる熊本の果ての山奥で一番大きな屋敷は、貧しい村人たちにとって「喉から手が出るような」、しかしどうしても手が出せない、忌々しい場所であった。ある年の6月、すでに猛暑のきざしが見られ、気温は日に日に上昇していた。太陽は強烈な日差しを地上に降り注ぎ、村の人々は思わず日陰を求めて歩き、小さな涼を求めるようになった。こんなに早い時期からの暑さは、その年の夏がどれほど厳しいものになるかを予感させ、村の人々が大きな不安と当たり散らしようのない焦燥感に苛まれ始めたとき、この屋敷で身元不明の腐乱死体が発見された。通報者は、この屋敷に毎週一回、牛乳や卵などの食料品を届けてくれる配達人であり、彼はいつも通りの配達を行うつもりで訪れた。しかし、普段の注文主が応答しないことに不審を抱き、玄関に近づいたところ、不快な臭いを感じた。その臭いに導かれるようにして中を確認してみると、そこには見るも無残な状態の身元不明の腐乱死体が横たわっていた。驚愕と恐怖で慌てながらもすぐに警察に通報し、事件の発覚に至ったのである。この屋敷には二人姉妹と飼い猫が暮らしており、当時は従兄も数か月滞在していたはずである。ところが、その屋敷には、一匹の飼い猫だけが残されていた。人の気配が消えた家の中で、その猫は、普段とは違う状況に怯え、異常なほど興奮していた。何かを恐れるように毛を逆立て、落ち着きなく家の中を歩き回っていた。身元不明の腐乱死体は、性別すら判別できないほど腐敗が進んでおり、その状態は非常に深刻であった。このため、熊本県警は事件解決に向けて、科学的な手法を用いることに決め、熊本大学院に遺体のDNA鑑定を依頼した。
その村には、一つだけ小学校があり、そこに勤める教員は村の教育を支える重要な存在であった。村唯一の小学校で子供たちに教えるその教員は、村の人々とも密接につながっており、村全体にとって欠かせない存在となっていた。
「身元不明の腐乱死体は、ブロンドだよ。」
「担任だった教師の俺が言うんだから間違いない。」
「悪い猫めって、仇名をつけたのは俺だよ。とうとう『ジェーン・ドウの解剖』にまわされちまった」
「いい気味だよ。ざまあみろ。」
「今から、ずっとこの屋敷を『ジェーン・ドウの屋敷』と呼ぼうじゃないか」
「さあ、屋敷に向かってドウと叫べ!ドウと声を張り上げろ!気も狂わんばかりに!石を投げろ!」
「これからずっと、『ジェーン・ドウの屋敷』は村の共有財産だ!」
「土地も財産も一つ残らず奪い取れ!金網のフェンスをぶち壊せ!」
Cat… I’ve loafed, cat… I’ve loafed, cat…
cat… I’ve loafed, cat… I’ve scratched it…Cat… I’ve loafed, cat… I’ve loafed, cat…
cat… I’ve loafed, cat… I’ve scratched it…
わるい ねこめ つめを きれ
やねを おりて ひげを それ
ねこ とんじゃった ねこ とんじゃった
ねこ すっとんじゃって お星さま
お空に飛んで、雲の上で鳴いている
ねこ グッバイバイ ねこ グッバイバイ
ねこ あしたの あさ おりといで
「わるい ねこめ 」男の子たちが囃し立てた。「わるい ねこめ、わるい ねこめ 」そしていっせいに移動して、一列に並んだ。親たちに教わっているのだろうか。そうでもなければ、これほどたくさんの子供たちが、これほど完璧に覚えられるはずがない。あたしはその言葉がわからないふりをした。子供たちはきんきん声を上げ、母親たちは笑っていた。
あの子たちの舌は火を食べたように燃えてしまう。言葉が出てくるとき、喉も燃えてしまう。
「あばよ、ブロンド、ライカによろしくな」フェンスの端を通り過ぎるとき、子供たちが呼び掛けてきた。そこにあたしの屋敷の小径に通じる門があった。門の鍵は単純な南京錠で力ずくでの破壊に対して脆弱だったから、どんな子供でも壊せるが、門には「私道につき立ち入り禁止」の札があって、誰もその門を乗り越えることは出来なかった。お父さんが小径を閉め切ったときに門を作り、鍵を取り付けたのだ。それまでは、村からバス停のある幹線道路に抜ける近道として、村人たちは誰もが、この小径を歩いていた。うちの小径を使い、うちの玄関先を通れば、バス停までずいぶん近道になっていたはずだ。でも、お母さんはうちの玄関先を他人が通ろうとするのが厭でたまらなかった。
「幹線道路は村人たちが使う道で、うちの玄関先はうちだけのものよ」
あたしの名前はブロンドよ。思春期の入り口の12歳で思春期が停止してしまったの。10歳年の離れたライカ姉さんと、村で一番大きなお屋敷で暮らしている。
この村のありさまは、貧しく無様で醜い。この村の主な税収源が農業だけという状況で、2000年初頭にペンション村の経営が破綻すると、村の男たちはまだ若々しいにもかかわらず、噂話に明け暮れ働こうとしなくなった。村の女たちは陰気な性質の悪い疲労のせいで老け込んで、コンビニもスーパーもつぶれてしまって、村には1,2件の食料品店しかなく、買い物がとても不便だった。その店先にたむろする男たちの前を通るのが憂鬱でおっくうに感じるのは、やはり視線を感じたり、みんなで見物されたり、嘲笑われるのではないかという心配が生じるせいで、村の女は、男たちが腰を上げて家に帰るのを、ひっそりと待っていた。
この貧しい村での生活は非常に厳しく、耐え難いほど困難で、身体的・精神的に大きな負担を伴う。
村人たちのほとんどが、四季折々の厳しい暑さと寒さを全身で感じながら働いてきた。
ほとんどの村人の「原始的な仕事」は、肉体的に非常に過酷であり、汗をかくことが日常の一部となっていた。
「原始的な仕事」とは、肉体労働に依存する仕事だから、自然環境に直接影響される。
特に夏の猛暑や冬は、気温が極端に低く、冷たさが肌を刺すような極寒の中では、外に出ることや作業をすることが非常に厳しい。この村の北側の山間部では、極寒の気候があたりまえで、雪や氷が日常生活に大きく影響を与えた。寒さの中では、体力的にも精神的にも大きな負担となるからだ。
山々に囲まれた北部地域に位置するこの村の冬は特に厳しい寒さに見舞われることが多く、雪が深く積もることもあった。交通が不便で、外部との行き来が限られることもあって、その分、この村に昔から伝わる特有の習慣が未だにしっかりと守られている。この村では、ほとんどの村人たちが、この掟を日常生活の中で自然に受け継いでいる。村独自のルール、共同体としての精神が、村の文化的なアイデンティティが強く保たれている。
あたしのお父さんが亡くなると、幹線道路と川に挟まれた土地をまるごと所有していて、ライカ姉さんが相続した。村の役場の先を左に折れると、あたしの棲む屋敷の私有地内に通じる専用の私道がある。お父さんの作らせた金網フェンスが道沿いに延びている。役場から歩いて帰れる小径の入り口で、あたしは門の鍵を開け、中に入って鍵を掛け直し、森を抜けて屋敷に帰る。
村の人々は、ずっとあたしたち一族を、あたしたちの私有地を、あたしたちの財産を憎んでいた。
「りっぱな古い一家がいなくなると、村から品格ってものがなくなっちまう。りっぱな古い私有地に、金網のフェンスを張って、専用の小径を作って、お上品に暮らしていらっしゃる」村の男たちはいつも、くたびれるまで喋り続ける。なんだかすごく単純で馬鹿げたところがあった。習慣でなんとなくあたしたちを嫌っているわけではなく、意図的に憎しみをぶつけてくる男もいた。女たちののっぺりとした灰色の顔と悪意に満ちた目は、背後に気配を感じるだけでも薄気味悪い。村の奴ら、皆殺しにしてやりたい。「みんな死んじゃえばいいのに」とあたしは思い、その言葉を大声で叫びたくてたまらなかった。誰もかれも苦痛に泣き叫びながら転がっていて、死にかけていたなら素敵なのに。
村人たちへの仕返しとして、いつかやれるだけのことはしてやるのだ。
「まったく気の毒な娘たちさ」「りっぱな農園さね。農業にはうってつけの土地だ。あの広大な土地を耕せば、大金持ちになれるってもんよ。」「毒草か何かが生えてるか気にしなけりゃ大金持ちさ。自分たちの土地をしっかり囲い込んでな。でも、あの土地にゃ何が生えるかわかんねえ」
あたしは自分なりのルールを作った。あたしはエデンの園の中央に植えられた樹の上で暮らしている。
エデンの園の真ん中にあたしだけの小さな家がある。
あたしはエデンの園にある自分だけの家が気に入って、家の中に暖炉を作り、外には庭をこしらえた。
エデンの園の真ん中にあるあたしの庭で、知恵の樹と生命の樹がとても鮮やかで空の上まで元気に伸びている。
雷花(ライカ)姉さんを中心に、あたしたち幸福な一族の食卓が回っていた。あの惨劇が起きたのは初夏で、雷花姉さんの畑は実り豊かだった。まだ鮮やかな緑が広がる季節だったことを思い出す。その年は今よりずっと気候が良く、穏やかな日々が続いていた。しかし、あの不気味な事件が起きてからというもの、あの頃のような穏やかで鮮やかな緑が広がる夏は二度と訪れない。雷花姉さんが腕によりをかけて作った料理には、人柄や愛情がたっぷり込められていて、どれも美味しく、食卓を囲む家族の心を豊かに満たしてくれた。
雷花姉さんが丹精込めて育てた野菜畑で収穫したレタスやニンジン、ラディッシュは、とてもみずみずしくて甘く、サラダにして食卓に供された。新鮮な野菜の彩りや香りが食欲をそそり、口に入れるとその瑞々しさと甘さが広がって、まるで自然の恵みをそのまま味わっているかのような贅沢なひとときだった。
うちの野菜畑の遥か左の土地には、他の茂みや松林の木の枝に囲まれた庭があった。庭は鬱蒼としており、日差しがほとんど届かないほどの密集した植物で覆われていた。葉や花の色は鮮やかで美しいが、どこか不自然な輝きを放っており、その異様な美しさが逆に不気味さを強調している。
この庭には、シキミ、トリカブト、イチイ、スズラン、スイセンといった植物が育っている。
シキミ、トリカブト、イチイ、スズラン、スイセン…
シキミ(樒)は仏事に使用されることが多い常緑樹だが、その種子や葉には毒が含まれており、誤って摂取すると危険だ。特に、「八角」と混同しやすい。トリカブト(鳥兜)は非常に強力な毒を持つ植物で、特に根には猛毒がある。昔から毒薬として知られ、誤って摂取すると致命的な結果を招く。イチイ(櫟)は庭木としてもよく見られる針葉樹だ。しかし、その種子や葉には毒がある。赤い実の種子は、色が奇麗で、子供たちが間違って食べるが、強い毒が含まれている。スズラン(鈴蘭)は美しい花を咲かせるが、全体に毒が含まれているから、最も危険だ。葉や花を食べると心拍数の低下や嘔吐、下痢を引き起こす。スイセン(水仙)の見た目は美しいが、球根や葉には毒があり、誤って食べると吐き気や下痢、重篤な中毒症状を引き起こす。
「いったい、誰がこれらの毒草を植えたんだい?このあたりだけが毒草で覆われているなんて不気味じゃないか。しかし、これだけ毒草が揃っている庭は珍しいよ。実に興味深いな。」
従兄のベルゼブルが非常に驚いて、言葉を失った。
雷花姉さんは地面にひざをつき、まるで土から腕を生やしたかのように両手を土に埋めていた。彼女はその手で土をこねたり返したりしながら、植物の根に触れたりしていた。
赤ちゃん…私のあかちゃん
お父さんが…私のあかちゃんを連れて行った…
「ベルゼブルにいさん、私とあなたの赤ちゃんがいた…」
ライカは、従兄のベルゼブルに言った。
私、今、何を思い出したの?
あかちゃん?
私が生んだあかちゃんですって?
そんなばかな…
どんなあかちゃん?
ほら 顔も思い出せない
「ライカ…きみ…もしかしたら…少し記憶が戻っているんじゃないか?」
「思い出したことがあるなら話してくれないか」
ベルゼブルは、ライカの記憶の一部が戻った可能性に気付いた。
「ベルゼブルは私生児なんだぞ。叔父さんの子どもじゃない。身持ちの悪い叔母さんがどこの馬の骨ともわからない男の子を産み落としたんだ。そんな忌まわしい血を受け継いだ男の赤ん坊を産むなんて。断じて許さないぞ。今すぐ捨ててしまえ!」
ライカは、父親の暴言によって深く傷つき、産褥期精神病に陥った。その結果、彼女はベルゼブルとの間に生まれたばかりの赤ちゃんを殺してしまうという悲劇的な行動に至った。そして、追い詰められたライカは心の痛みや絶望を抱えながら赤ん坊の遺体を誰にも見つからないように庭に埋め、その上に毒草を植えた。まもなく、ライカは精神を病み、精神的なトラウマやストレスからの逃避として記憶障害に陥った。その結果、自分が犯した罪を忘れてしまった。この状態は、彼女の心と精神が耐えきれないほどの負担を抱えていたことを示している。ライカにとっては、心の痛みから逃れるための無意識的な防御反応であったのかもしれない。この状況は、一族の人々にも深い影響を及ぼした。苦々しく思う人、忌々しく思う人、そして憂う人がいる中で、ライカとベルゼブルの仲は引き裂かれてしまった。一族の中で様々な感情が渦巻き、彼らの関係に対する理解や支援が得られない状況が続いた。このような複雑な感情の交錯は、ライカとベルゼブルにとってさらなる試練となり、彼らの絆を断ち切る結果となってしまった。
「ベルゼブル?」ブロンドが言った。
ベルゼブルに出ていってくれと頼んでみればいい。
出ていくことを思いつかないなら、思いつかせてやらねば。
「なんだい?」
「出ていってくださいとお願いすることにしたの」
「いやだね」
「ライカとぼくは二人だけの話があるんだ。ブロンド、あっちへ行けよ。」
急いで計画を立てなくては。ライカはまだ僕を愛していた!肝心なのはそのことだけさ。
「じっさいのところ、あともう少ししたら、まだこの屋敷にいるのはどっちかな?」
「ブロンドかな?それともぼく?」
「悪いやつ!おまえは幽霊で悪霊よ」
「なんだと」
「ぼくを嫌いな人に、ぼくがどんな仕返しをするかブロンドは知っているのかな?」
「気の毒なブロンドは、ライカ姉さんに追い出されたらどこに行くんだろうね」
ベルゼブルがダヴに聞いた。ダヴは黙って耳を傾けている。
「ライカとベルゼブルに嫌われたら、気の毒なブロンドはそうするんだろうね」
「ダヴに近寄らないで」
「ダヴ、もうベルゼブルに近寄っちゃだめよ。あいつは邪悪な幽霊なの」
ブロンドの飼い猫は目を閉じてそっぽを向いて、何かを考えている。
ベルゼブルを追い払うには、完全な魔法を使わなくちゃ。
魔法を間違ったら、うちにもっと大きな災いを招くだけかもしれない。非常に危険で悪意を持った存在だわ。
最後の晩餐の夜、ブロンドとライカの両親はひどい喧嘩をしていた。
「がまんできませんからね、あなた」とお母さんが言った。すると、「仕方ないんだ」とお父さんが答えた。
「わたしの美しい部屋がちらかっているのはがまんできないわ」
ベルゼブルが何を言うつもりか、ブロンドにはわかっていた。
なぜって、ぞっと寒気がしたから。
ブロンドは椅子に身を沈め、ライカ姉さんをじっと見つめた。
立ち上がって逃げ出してほしい、これから言われることを聞かないでほしいと願いながら。
だけどベルゼブルは先を続けてしまった。
「もうじゅうぶん償いはしただろう?ライカ!」
「ミルクを忘れてるわ。あたし取ってくる」ブロンドは立ち上がって、ライカ姉さんに直に話しかけた。
台所に暗い影が差しているのを見て、ブロンドは寒気を覚えた。
ライカ姉さんはまるで、ずっと拒んだり退けたりしてきたのに、もう外へ出られるかもしれないと、いきなり考え始めたみたいだ。ブロンドは息ができなかった。針金で縛り上げられたみたいで、頭が膨れ上がり、爆発しそうだった。だけど、急いで戻らなくちゃ。ブロンドはテーブルに載っていたミルクピッチャーを叩きつけるだけで我慢しなくてはならなかった。それはお母さんのものだった。ライカ姉さんが見つけるように、破片は床に投げ散らかしておいた。
「コーヒーにココナッツシュガーをスプーン1杯入れる?」ブロンドは我慢できなくて、ベルゼブルにたずねた。
ベルゼブルはたっぷり30秒かけてシュガースプーンを持ち上げて、ライカにずっと微笑みかけていた。
「ライカは、あの最後の晩餐の殺人については無罪放免になったんだよ。この砂糖壺にも、ココナッツシュガーにも危険などあるはずがないだろう?」
「砒素を味わったことがあるの?ベルゼブル」
「この屋敷で起こったのよ!」
「もちろん、この屋敷の食堂で起きた殺人事件です。私たち一族は、晩餐会を開いておりました」
ライカ姉さんが重い口を開いた。「ココナッツシュガーに砒素が混じっていたわ」
「家族みんなが、コーヒーにミルクやココナッツシュガーをスプーン一杯入れて、ヨーグルトアイスクリームに、ココナッツシュガーを掛けたわ。でも、私はココナッツシュガーを食べませんの。」
「そのことが、裁判ではとても不利になったわ」
「ねえ、ライカ。君もそろそろ将来のことを考え始めなければいけない。過去にしがみついているのは不健全なことだよ。可哀想なライカはもうじゅうぶん苦しんだじゃないか」
「ええ、家族のことはもちろん忘れられません。みんないなくなって、何もかもひどく変わってしまいました。」
「恐ろしい殺人事件だったのよ」ブロンドは繰り返した。
「身の毛もよだつ殺人事件だった!あの夜の死の食卓で、あたしたちは今だって、ほら、お茶を飲んでいる」
「でも、ブロンドは食卓についていなかったわ。お部屋にいたから」
「妹は、12歳の恐るべき子どもで、夕食抜きでベッドに追いやられていたのです。妹はいつも怒られていたのです。お父さんが食堂を出た後で、よくお盆にディナーを載せて持つていってやりましたわ。性悪で、大人の言うことをきかない子どもでした」
「不健全な環境だね、今でもずっと。いや、ますます悪くなっている。お仕置きを与えなければいけない。僕なら、ブロンドのがさつな振る舞いを大目に見ない」
「なぜ、殺人者は砒素など使ったりしたのだろうね?ライカはそんな巧妙な真似のできる娘じゃないよ!」
「弁護士もそう言ってくれました。なぜなら、屋敷の裏にある薬草園で、誰もが呆れるほど多様な致死性の毒を手に入れられるから。青酸を多量に含んだ毒草で作ったソース掛けのステーキや、毒草入りのジャムや食べるとすぐ身体が麻痺して死に至る毒草たっぷりのサラダを食べさせることもできたはずだと弁護してくれました」
「言うまでもないことよ。ライカ姉さんが家族みんなを毒殺するつもりだったとすれば、料理をさせるべきじゃなかったのよ。ライカ姉さんに料理をさせていたことに問題があるのよ。寛容にもほどがある。そうおもうでしょ?」
「この屋敷の大量殺人者には理由があったはずだ。何か異常でひねくれた、殺人マニアのようにね」
「ところが、ライカは無罪放免になったんだ。ライカは手を下してもいない。動機もないのさ」
ベルゼブルの父親が生きているあいだは、ここへ来ることも、力になろうとすることもできなかった。ベルゼブルの父親は、ライカとブロンド姉妹の父親である兄のことを、とても悪く思っていた。ライカが疑われた大量殺人の裁判のあいだ、ブロンドの面倒を見るのも厭だと言った。ではどうして、父親が亡くなるとすぐに、ベルゼブルは急いでこの屋敷へやって来たのだろう?
ベルゼブルの父親は、息子に僅かな遺産さえ遺してくれなかった。ライカ姉さんは美しくなかったが、遺産はたっぷりあった。ライカは、家族皆殺しの汚名を着せられて、この村一番の悪名高い女ともなれば、若いベルゼブルの目にはロマンティックに映る。朝食の後で、二人姉妹は魔女のように雑巾と箒と塵取りとモップでお昼まで掃除をしていた。ベルゼブルは、屋敷の寝室に行っては、お母さんの真珠や、サファイアの指輪や、ダイヤのブローチが入った宝石箱を覗いたり、「女所帯なんだから、こんなふうに、お金を家に置いといちゃいけないよ」と言ったが、実はお父さんの寝室にある衣類を物色したり、書斎の装身具の箱の中を覗いたりした。
「金の鎖が、木の幹に留めてあったんだ!まったく、この家はどうなってるんだ?」
ベルゼブルは鎖を悲しげに見た。「僕が身に着けても良かったのに。貴重品をこんなふうに扱うなんて。売ることもできたのに!」
「この屋敷にある貴重品は、なんでも金になるんだよ」「こいつは時計用の金鎖だ。高い値がつく。まともな人間なら、こういう貴重品を木に留めて回ったりしないもんだ」「二階の書斎に持って行って、元の箱に戻すよ」ベルゼブルが、貴重品の保管場所を知っていたことに気が付いたのは、ブロンドだけだった。
「どうして木の幹にあったのか、調べるとしよう。高価な色も良いスカーフで門を縛ってあったよ」
「ブロンドがやったのよ。いつものことだもの」
「ほんとうかい?もう我慢ならない。あんまりだ」ベルゼブルが、怒鳴り始めた。
「こんな話があるかよ。見てくれ!ライカ?金貨が庭に埋めてある。ブロンドの金じゃないのに!」
「ブロンドには隠す権利なんかないんだ。ひどい話だよ」
「あのイカれた餓鬼が、そこら中に何百個も埋めてるかもしれない。ぜったいに見つからない場所に!」
「信じられない、まったく」今では金切り声になっている。
いつまで怒鳴り続けるつもりだろう。ベルゼブルは屋敷の中に黒々とした騒音を撒き散らしている。
その声は、どんどん高くなっている。このまま叫び続けていたら、キーキー鳴き出すかもしれない。
火照るままの夏のある日、村に奇妙な沈黙が訪れる――屋敷跡から再び異臭が立ち込め、警察によるDNA鑑定の結果がついに下された。腐乱死体の正体は、ブロンド自身だった。だが、その事実が発覚するまで誰も気づかない。ブロンドは、「私」という視点で語っていた語り部だった。その「ブロンド」の存在こそ、実は家族と村人たちの罪悪感、恐怖、不安、羨望、そして呪いの象徴だった。
ライカは精神を壊し、真実と向き合うことなく里を去る。彼女は全ての過去を捨て去るため、毒草の庭に最後の別れを告げて消える。屋敷にとり残された猫は、もう何も恐れずに、静かな庭からふと夜空を見上げて鳴き、やがて村の少年たちに拾われる。
ベルゼブルは、屋敷の金貨や宝石をたった一人で掘り返そうと夜な夜な忍び込むが、迷い込んだ毒草の庭で幻覚を見、己の罪深さに気付き、村をあとにする。
屋敷はその後、村人たちによって「ジェーン・ドウの屋敷」と名付けられ、共有財産として取り壊される。だが、村人たちは格別豊かになることもなく、不気味な空き地としてそこを忌避し続ける。
最後に、語り部=ブロンドの声だけが響く。
「この村の誰もが、あの屋敷の中の出来事を一つも憶えていないふりをして生きていく。毒草の花は季節が巡ればまた必ず咲き、私はいなくなっても、誰の胸にも静かに種をまいたのだ。誰よりも小さく、強く、しぶとい種子――この村のどこかで芽吹くだろう。許されず、忘れられず、ただ、無名の詩篇として」
屋敷に吹く風。本当に失われたのは、だれか。罪なのか、記憶なのか。
猫が駆け抜けた土の上に、ミルク色の花がひとつ咲く。村人の誰も、その名前を知らない。
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