十月の終わり、保証会社のサービス付きアパートメント「グレイスコート」の四階に、二人の老嬢が引っ越してきた。
廊下で荷物の搬入を見守る管理人の目には、まるで双子姉妹が並んでいるように映った。どちらも八十代と思しき小柄な女性で、白髪まじりの髪を同じようなシニヨンにまとめ、淡い石鹸の香りをまとっていた。服装は上品で知的な印象を与えるツイードのジャケット、耳元と首元には揃いの淡水パールが光っていた。身長までほぼ同じに見えたが、よく観れば、一方がわずかにヒールの高い靴を履いていた。
二人を区別する唯一の目印は、片方の目の下にある小さなほくろだった。
引っ越しの書類に名前を記した指は、ほくろのない方の指だった。「浦野澄江」。夫を亡くしたばかりの遺族である、と管理人に告げた。もう一人は「家政の者です」と、ほくろのある老嬢が微笑んだ。「お世話になります」と揃って頭を下げた所作が、あまりにも似ていたので、管理人は思わず瞬きをした。
四階の廊下を挟んで向かい側の部屋には、九十代の老婆が一人、ベッドに横たわっていた。名前は永田きよ。足腰が不自由となって久しく、今は孫娘の真帆が転勤前の数ヶ月だけ同居していた。
きよの楽しみは、ベッドから届く範囲のあらゆる音と気配を読むことだった。耳はまだよく聞こえた。鼻も利いた。廊下を通る靴音の違い、住人それぞれの咳払いの癖、調理の匂いが漏れ出てくる時間帯。長い寝たきりの日々の中で、きよの感覚は研ぎ澄まされていた。
新しい隣人が来てから数日後、真帆が夕食の膳を運んできたとき、きよは静かに言った。
「あの二人ね。何かが変なのよ」
「変って?どう変なの?」真帆はトレーを置きながら首を傾げた。
「ほくろの位置が……違うような気がするのよね。ある日はあって、ある日はないような」
「おばあちゃん、目が悪いんだから。見間違えじゃない?」
きよは薄く笑った。「そうかもしれないわね」
その夜、きよは真帆に昔の話をした。
「私が若い頃ね、山の向こうの村で、似たような話があったのよ」
「似たような?」
「裕福なご婦人と、その付き添いの話。二人が仲良く暮らしていたのだけれど、ある時、付き添いの方が山道で転落して亡くなった。村人はみんな不思議がったわ。なんだか怪しいって、しばらく騒いでいたの」
「殺されたの?」
「さあね。でも、不思議なことに、ご婦人の方が遺産を相続したと思ったら、今度はそのご婦人まで、すぐに山から落ちて亡くなったのよ。結局、遺産は夫に転がり込んで、その家の子孫が今もあそこに住んでいるわ」
真帆はご飯を食べる箸を止めた。「犯人はわからなかったの?」
「遺産の一部が村の祭りに寄付されたから、みんな、まあよかったってなってしまったの。田舎のことだから、深く考え込む人がいなかったせいもあるわ。私も、何も言わなかった」
きよはしばらく天井を見つめた。「でも、ずっと気になっていたの」
翌朝、真帆は廊下で隣の部屋から出てきた二人の老嬢とすれ違った。微笑んで会釈をした。二人も揃って会釈を返した。
部屋に戻ると、きよが待ちかねたように口を開いた。
「今、どちらが先に出てきた?」
「えっと……ほくろのある方かな。そのあとからもう一人が」
「ほくろのある方ね」きよが目を細めた。
「ねえ、おばあちゃん、結局何が言いたいの?」真帆は正直に訊いた。「隣の人は殺されたの?召使が犯人なの?それとも女主人?何の目的で?誰が得するの?さっぱりわからないよ、私には」
きよは静かに答えた。
「まだ殺されていないわ。でも、これから殺されるかもしれない。犯人になるのは召使の方。でも、召使を動かしているのは別の人間よ。目的は遺産。得をするのは、表向きは召使だけど、本当は遺族が集まって分け前に預かる仕組みなの」
「なんで召使が動く必要があるの?」
「召使を紹介したのはね、『ローズマリー』っていう民間の心理カウンセラー協会なの。その協会のカウンセラーが、亡くなったご主人の遺族に繋がっているのよ。遺産の分配に関わる全員が、少しずつ利益を得る。誰も大損しない。だから誰も騒がない」
真帆は黙って聞いていた。
「召使はね、公正証書を偽造して遺言執行人になろうとしている。浴室での転倒事故に見せかけて——」
「おばあちゃん」真帆が静かに遮った。「でも、証拠もないし、おばあちゃんは刑事じゃないし。どうしようもないよね」
きよはしばらく黙っていた。「そうね」
十一月の第二週、廊下に運送会社のカートが行き来するようになった。
真帆がその様子をきよに報告すると、老婆は目をつむった。
「引っ越すのね」
「そうみたい。また別の場所に移るのかな」
「ええ。ほとぼりが冷めないうちは、同じ場所にいられないでしょうから」きよの声は静かだった。「次の場所でも、同じことが繰り返されるわ。召使が替わっても、新しい人が『ローズマリー』から来る。そういう仕組みになっているの」
真帆は窓の外を見た。秋の光が斜めに差し込んでいた。
「私も来週には転勤だから」真帆は言った。「何もできないね」
「あなたは十分よ」きよは言った。「ありがとう」
その夜、きよは長い時間をかけて、震える手で一枚の手紙を書いた。
引っ越しの当日、朝の光の中で真帆はコートを羽織りながら靴を履いた。
「真帆」
振り返ると、きよがベッドから白い封筒を差し出していた。
「隣の方に、渡しておいてくれる?どちらでも構わないけれど」
真帆は封筒を受け取り、廊下に出た。ちょうどほくろのある老嬢が段ボール箱を抱えて部屋から出てきたところだった。
「あの、おばあちゃんから預かりまして」
老嬢は封筒を受け取り、一礼した。真帆は急ぎ足でエレベーターへ向かった。振り返りはしなかった。
廊下に残された老嬢は、封筒を開いた。
便箋には、老婆の細い文字がゆっくりと並んでいた。長い文ではなかった。ほくろのある日とない日のこと。運送屋の往来のこと。靴のかかとの高さのこと。そして村の話。誰も罰せられることのなかった、あの山間の村の話。
最後にこう書かれていた。
「あなたのことは、わかっています。残された時間を、どうかご自分のために使われますように」
老嬢はしばらくの間、廊下に立ち尽くした。蝋細工のように白くなった顔で、封筒を胸に押し当てたまま、動かなかった。
やがて彼女は歯を食いしばり、目を閉じ、息を整えた。そして静かに踵を返し、最後の荷物を手に取った。
引っ越しは、予定通り実行された。
それから数ヶ月後、春の終わりに、きよは管理人からひとつの話を聞いた。
あの二人の老嬢のうち、家政の者として来ていた方が、転居先で亡くなったのだという。持病だったそうだ。愛する夫に看取られての、穏やかな最期だったと聞いた。
きよは、しばらく天井を見つめた。
隣の部屋からは、もう何の気配もしなかった。春の光だけが、薄いカーテン越しに静かに差し込んでいた。
老婆はゆっくりと目を閉じた。
村のことを、初めて、誰かに話せた気がした。