けものの声で

 いまでも、街灯の絶えた夜道にひとりで立つと、喉のいちばん奥、声帯よりもさらに深いあたりが、自分の意志とは関わりなく、ひくりと動く。何かを発しようとして、出口の手前で踏みとどまっているような震え。声は出さない。出さなくても、内側では確かに、あの帰り道の輪郭を喉がなぞっている。妻にも、誰にも、言ったことはない。

 小学生のころ、僕らは下校のあの一区間を、人の言葉を捨てて通り抜けることになっていた。誰が言い出したのでもない。ひとつ上の学年が、そのまたひとつ上から理由も告げられぬまま受け継ぎ、そっくり僕らへ手渡してきた決まりだった。団地の手前、シャッターの半分下りた青果店の角から、三号棟のいちばん端、いつも明滅している街灯の真下まで。そのあいだだけは、人間の声を出してはならない。「ただいま」も「やばい」も、舌に乗せた瞬間に、自分が人間であることがあちら側に知れてしまう。かといって黙るのは、もっといけなかった。口をつぐんだ子から順に、足が地面に縫いつけられたように動かなくなる——上の学年は、そう言った。

 だから僕らは、けものになって帰った。アカキツネが夜更けに放つ、女や子供が喉を裂いて命乞いをしているような「ギャーーー!!」「ア゛ーーー!!」。発情期のアカシカの牡が縄張りを誇示して上げる、酔った大人の男が腹の底から怒鳴り散らすような「ラァァァァァン!!」「オ゛ォォォォォ!!」。それを、ランドセルを跳ねさせながら声帯が裂けるほど真似て、団地のコンクリートの谷間を一散に駆け抜ける。街灯の真下まで来れば、もういい。そこで声はようやく人間のものに戻り、誰かが「また明日」と、何事もなかったように言って、僕らはそれぞれの棟へ吸い込まれていった。

 あとには、いつも、厭な匂いの残りのようなものが夕暮れの団地に薄く張りついた。叫びの残響でも、駆ける足音でもない、もっと粘つく何か。怨念とも穢れともつかないそれが、あの一区間に日ごと塗り重ねられ、層になって溜まっていくのを、僕は子供心に感じていた。

 男の子の声を真似るのが何より好きな女の子たちもいた。意味も知らず、ただ音の高さだけを、オランウータンやチンパンジーの仔のように甲高く繰り返して。あの子たちが一番、危なかったのだと、今ならわかる。

 途中で声を切らした子のことを、僕らは決して口にしなかった。名を言葉にした瞬間、それがあちら側から呼び戻されて、またひと刷毛、何かが塗り重なる気がしたから。みんな知っていて、だからこそ、誰も知らないふりをして帰り続けた。

  *

 転校生のことを、いまでも名前で覚えている。二学期のはじめ、まだ昼の暑さが居座っていたころに、僕らの組に入ってきた子だった。前の学校がどこだったのか、なぜ越してきたのか、誰も詳しくは知らない。ただひとつ確かだったのは、その子が団地の子ではなかったということだ。線路の向こう、新しく区画整理された戸建ての並ぶほうから通ってくる子で、だから——あの帰り道の決まりを、受け継いでいなかった。

 初めて一緒に下校した日のことを、僕はそれから何百回となく思い返すことになる。青果店の角が近づくと、いつものように、誰からともなく喉の奥が鳴りはじめた。僕らはランドセルを背負い直し、息を深く吸い込んで、けものに変わる支度をする。ところがその子は、僕らが「ギャーーー!!」と最初の声を放った瞬間、ぴたりと足を止めて、けらけらと笑ったのだ。

 「何それ。子供じゃん」

 その一言が、僕の喉のいちばん奥で、つかえた。放とうとした叫びが、出口の手前で固まって、出てこない。いつもなら何ひとつ考えずに獣になれたのに、その日だけは、笑われていることが、自分が人間であることが、どうしようもなく恥ずかしくなった。みんなが「ア゛ーーー!!」「オ゛ォォォォォ!!」と先を駆けていくなか、僕は——ほんの数歩のあいだ、声を出さず、人間の足で、人間のまま、あの一区間に踏み込んでしまった。その数歩のことを、どう書きあらわせばいいのか、いまでもわからない。空気の密度が変わった、というのが、たぶん一番近い。背中のうしろ、毎日少しずつ塗り重ねられて層になっていた何かが、ふいに、こちらを向いた気がした。叫び続ける友達の声が急に水のなかのように遠のいて、かわりに、僕自身の足音だけが、やけにくっきりと、団地のコンクリートに跳ね返った。ぺた、ぺた、と。それは、まぎれもなく人間の足音だった。

 転校生は、まだ笑っていた。僕のすぐ隣で、人間の声で、何か喋っていた。口が動いているのは見えるのに、もう、何ひとつ聞き取れなかった。

  *

 僕がどうやってあの数歩を抜けたのか、正確には覚えていない。覚えているのは、喉の奥でつかえていた塊を無理やり吐き出すように、それまで出したこともない大きさで叫んだことだ。「ア゛ーーー!!」自分の声とは思えない、本当にけものの、命乞いと威嚇の入りまじったような声。その瞬間、こちらを向いていた何かが、ほんのわずか、僕から関心を逸らした——気がした。僕は人間の足を捨て、ただの音になって、街灯の真下まで駆けた。

 光の輪のなかへ転がり込んで、はじめて、僕は人間の呼吸を取り戻した。膝に手をつき、肩で息をしながら、来た道を振り返る。友達はもう、それぞれの棟の入口へ散っていくところだった。誰も、何も、気づいていないようだった。

 ただ、転校生がいなかった。

 青果店の角から街灯までの、あのまっすぐな一区間。さっきまで僕のすぐ隣で、人間の声で笑っていたはずのその子の姿が、どこにもなかった。暮れかけた道に、ランドセルも、上履き袋も、何ひとつ落ちていない。最初から、誰も並んで歩いてなどいなかったみたいに。

 

 転校生は、次の日から学校に来なかった。担任は、家の都合でまた引っ越したのだ、と言った。誰も、それ以上は訊かなかった。僕も訊かなかった。あの一区間で声を切らした子のことは口にしない——その決まりの本当の意味を、僕は生まれて初めて、自分の身で理解した。名を呼べば、またひと刷毛、何かが塗り重なる。だから僕は、その子の名前を、ここにも書かない。覚えているのに、書かない。

 

僕は、あの日、街灯の下までたどり着いた。たどり着いた、と、ずっと思っていた。

 けれどいまでも、夜、人のいない道に出ると、喉のいちばん奥が、ひくりと動く。声にならない声で、あの帰り道の輪郭を、勝手になぞる。妻には言っていない。言えるわけがない。

 たぶん僕は、あの数歩のどこかに、自分を半分だけ、置いてきてしまった。残りの半分が、こうして家族のいる家に帰り、布団に入り、子供の寝顔を覗き込んでいる。

 そして毎晩、もう半分が、まだあの一区間を、声も出せずに歩き続けている。ぺた、ぺた、と。人間の足音で。

 渡りきれないまま。