プロローグ
春節期間の訪日中国人観光客数 春節期間(約8日間)単位のピークは2025年でした。アリペイのデータによると、2025年春節期間中に日本での中国人の消費額は前年比40%増を記録しました。観光庁の発表によると、2025年第1四半期(1〜3月)の訪日外国人総消費額は2兆2720億円に達し、前年同期比28.4%の大幅増加となりました。観光庁長官は「訪日観光支出がもたらす経済効果は消費額の約2倍になる」として、この期間の経済波及効果を4.6兆円程度と推測しています。
この経済効果と比較して、2026年日本国憲法改正の後で、台湾有事が発生した場合、台湾国民が、避難先として日本国内に超長期旅行滞在者となることを希望申請し、日本国が許可した場合、どのくらいの経済効果が見込めるのでしょう?超長期旅行滞在期間は仮に3年間、さらに継続の可能性もあります。台湾のメインバンクは、中国銀行で、日本の銀行へ日本円で預け金をする義務が生じます。労働を目的としない、一時滞在であり、預金額は一人5000万円から1億円。家族であれば、2億円程度必要です。台湾国民が、お客様として、日本国内に超長期旅行滞在するとして、どのくらいの経済効果を日本にもたらすものでしょうか?
語り手:橋本奈緒(財務省・第三種公営団地特別措置法運用担当)
申請書が届いたのは、火曜日の午前十時二十七分だった。
私はそれを覚えている。なぜなら、その直前まで自販機のコーヒーが出てこなかったからだ。百二十円を飲み込んだ機械は何の音も立てず、私は三十秒ほど液晶パネルを睨んでいた。諦めてフロアに戻ると、係の森川が私のデスクに分厚い封筒を置いていた。
「橋本さん、来ました。第一号です」
森川は少し興奮した声で言った。彼は三十二歳で、私より二歳年下だった。財務省に入って十年、私たちはずっと数字を扱ってきた。予算、税収、国債残高。それが今年から、人間を扱うことになった。
封筒の表には、達筆な日本語で宛名が書かれていた。財務省 第三種公営団地特別措置法 運用室 御中。
中を開けると、書類は完璧に整っていた。
申請書、預金証明書、パスポートのコピー、台湾の身分証明書、誓約書。三菱UFJ銀行横浜支店に、一億二千万円。
申請者の名前は、陳文雄。生年月日は、一九六七年十一月三日。台湾新竹市出身。職業の欄には、元半導体エンジニアと書かれていた。
書類を一枚ずつ確認しながら、私はチェックリストを埋めていった。不備なし。不備なし。不備なし。問題なし。すべて規定通りだった。
最後のページが、誓約書だった。就労をしないこと。日本国の法律を遵守すること。三年ごとの継続審査に応じること。申請者はそれぞれの項目に丸を付け、署名していた。筆跡は静かだった。
そして、誓約書の下、備考欄があった。
財務省の書式では、備考欄は「特記事項があれば記入せよ」という注釈付きの小さな枠だ。ほとんどの場合、空欄のまま提出される。申請書類に感情を書く人間はいない。
ところが陳文雄は、そこに手書きで一行書いていた。
万年筆で、丁寧に。
「私はまだ台湾人です」
私は赤ペンを取った。規定にない記載は、線を引いてファイルする。それが手順だ。私は赤ペンを持ったまま、その一行を三秒間見た。
そして、線を引いた。
その日の午後、陳文雄の申請は承認され、神奈川県某市の第三種公営団地・緑ヶ丘住宅三〇五号室への入居が決定した。
私は森川に書類を渡し、自販機のある廊下に戻った。さっきの機械は、今度はきちんと動いた。コーヒーは、ぬるかった。
語り手:陳文雄(元TSMCエンジニア・主人公)
目が覚めたのは、午前五時だった。
カーテンの隙間から光が入っていた。台湾の光ではない。少し薄く、少し遠い光だった。私は天井を見た。見慣れない天井だった。それは当然だ。私は日本の公営団地にいる。
体を起こして、台所で水を飲んだ。蛇口の水は少し塩素の匂いがした。台湾の水も同じ匂いがする。その一点だけ、同じだった。
美玲はまだ眠っていた。彼女はよく眠る人間だ。三十年間そうだった。隣の部屋では志遠も眠っているはずだった。
私は押し入れを開けた。前の住人が忘れていったのか、ほうきが一本立てかけてあった。古い、竹のほうきだった。
手に取ると、重さがちょうどよかった。
台湾では毎朝、工場の自分のフロアを歩いた。N3プロセス開発棟の東側、私が二十年間担当したフロア。クリーンルームへの廊下を一往復して、異常がないか目で確かめる。何かあれば、すぐわかった。異音、気流の乱れ、わずかな温度の変化。私の体はそれを知っていた。
今日も体が動いた。
廊下に出ると、冷えた空気があった。四月の朝だった。廊下の端から端まで、約十八メートル。右側に五つのドア、左側に窓が四つ。私はほうきを動かし始めた。
砂、落ち葉のかけら、小さなゴミ。それだけだった。しかし丁寧に掃いた。角の部分、ドアの前、窓の桟の下。工場のフロアを点検するように、一センチも見落とさないつもりで動いた。
三〇四号室のドアが、少し開いた。
隙間から、老人の顔が見えた。白髪、丸眼鏡、警戒した目。私は手を止めた。老人も動かなかった。
五秒ほど、そうしていた。
私はまたほうきを動かした。老人のドアは、そっと閉まった。
廊下を掃き終えると、空が明るくなっていた。私はほうきを持ったまま、手すりから外を見た。駐車場、花壇、その向こうに住宅街。台湾の朝とは違う空だった。もっと白く、もっと静かだった。
台湾は今、どうなっているのだろう。
考えてもわからないことは、考えないことにしている。これは習慣だ。工場でも同じだった。シミュレーションできないことに時間を使わない。今日できることをやる。今日の廊下は、きれいになった。
部屋に戻ると、美玲が台所に立っていた。
「掃除してたの」と彼女は言った。驚いた顔ではなかった。
「ほうきがあった」と私は言った。
美玲はお粥を作っていた。台湾のお粥と同じ匂いがした。
私たちは、何も言わずに食べた。
語り手:陳志遠(息子・26歳)
父の口座には一億二千万円ある。
これは事実だ。三菱UFJ銀行の通帳を見れば、数字として確認できる。しかし私は毎朝、その数字が何を意味するのか、だんだんわからなくなっている。
父は働けない。法律がそう言っている。
私も働けない。同じ法律が、そう言っている。
第三種公営団地特別措置法、第七条。入居者は、日本国内における報酬を伴う就労を行ってはならない。ただし、地域社会への無償ボランティア活動はこの限りではない。
父はその条文を読んで、何も言わなかった。
私は怒鳴りたかった。一億二千万円持ってる人間に、働くなと言う国があるか。台湾では父は毎日十二時間、世界最先端の半導体を作っていた。そのシリコンの上で、今この国のスマートフォンも動いている。それなのに今、父は団地の廊下を掃いている。
私は毎日、市立図書館へ行く。
すること、と言えばそれくらいしかない。本を読む。日本語の本を読む。大学院にいたころは日本語が好きだった。精密な言語だと思っていた。でも今は、日本語を読むたびに、その精密さが壁に見える。
ある水曜日、司書の女性が声をかけてきた。
「よく来られますね」
三十歳くらいだろうか。眼鏡をかけた、静かそうな人だった。
「毎日来ています」と私は日本語で答えた。
「台湾から?」
私は少し驚いた。なぜわかったのか聞くと、彼女は少し笑った。
「先月から、台湾の方が増えました。みなさん図書館に来られます。本を読んで、日本語を学んで、静かにしています」
静かにしています、という言葉が、刺さった。
私たちは静かにしている。一億円持って、静かにしている。それが正解なのか、私にはわからない。
司書の女性の名前は、後で知った。田中恵といった。彼女は私に、日本語能力試験のテキストを勧めた。「N1レベルまで取れたら、後で役に立つと思います」と言った。
後で、というのがどういう意味なのか、私は聞かなかった。
家に帰ると、母が団地の廊下で隣の老人と話していた。木村さんという人だと、後で母に教えてもらった。母は三十分で老人と友達になる。これは台湾でも同じだった。母の人生は、いつでも人間で満ちていた。
父は台所で一人、茶を飲んでいた。
私は父の隣に座った。
「何を考えてるの」と私は聞いた。
父は少し間を置いてから言った。
「N3プロセスのことを考えていた」
半導体の製造プロセスの話だ。父が人生を賭けた仕事だ。今、その工場は台湾にある。台湾がどうなっているか、私たちは知らない。テレビのニュースは断片的で、父は見ない。
「また作れるよ、いつか」と私は言った。
父は答えなかった。茶を一口飲んで、窓の外を見た。
その横顔が、私には読めなかった。父の横顔はいつも、静かすぎる。
語り手:木村孝夫(隣人・72歳)
五十年、この団地に住んでいる。
引っ越してきたのは、二十二歳のときだった。郵便局に就職した年だ。あのころ、この団地は新しかった。コンクリートが白かった。今は少し黄ばんでいる。私も黄ばんでいると思う。
隣に外国人が来たのは、春のことだった。
最初は音がした。大きな荷物を運ぶ音、話し声。聞いたことのない言葉だった。ドアを少し開けて見ると、五十代の男と四十代くらいの女、それと若い男が廊下に立っていた。皆、静かな顔をしていた。
管理組合から案内が来ていた。台湾からの特別入居者が複数世帯入居すること、財務省の措置法に基づくものであること、ご協力をお願いします、と書いてあった。
正直、最初はいい気がしなかった。
なぜ台湾人がここに住むのか。なぜ国の法律で、無償で団地を貸すのか。私は税金を何十年も払った。五十年間この団地の家賃を払い続けた。それなのに、隣の外国人は国から無償で部屋をもらっている。
気に入らなかった。
しかし翌朝、私は少し考えが変わった。
午前五時、物音がした。ドアを少し開けると、隣の男が廊下を掃いていた。ほうきで、丁寧に、端から端まで。誰も頼んでいない。自治会も頼んでいない。ただ自分で起きて、掃いていた。
私は何も言えなかった。ドアを閉めた。
それから毎朝、音がした。
月に一度、団地の清掃活動がある。自治会が企画するもので、私は十五年間欠かさず参加している。八月の清掃のとき、隣の男が初めて参加した。
名前は陳さんといった。文雄さん、と奥さんが紹介してくれた。
陳さんは何も言わず、溝をさらった。一番汚い場所を、一番丁寧に、一番長い時間かけてやった。他の住民が休憩していても、陳さんは動いていた。
私は最初、なぜそこまでするのか理解できなかった。一億円持ってる人間が、なんで側溝を素手でさらっているのか。これは屈辱じゃないのか。それとも見せているのか。俺たちに、なんか示そうとしているのか。
清掃が終わった後、陳さんが私に近づいてきた。
小さな金属の缶を差し出した。
「台湾の茶です。よければ」
日本語は、うまくなかった。しかし言葉はわかった。私は缶を見た。小さな缶の蓋に、台湾の文字が書いてあった。読めなかった。
受け取り方がわからなかった。
礼儀として受け取るべきか。しかし私はまだ、陳さんのことが腑に落ちていなかった。ありがとうと言ったら、認めたことになるのか。何を認めるのか、それもわからなかった。
五秒ほど、そうしていた。
「ありがとう」と私は言った。
缶を受け取った。陳さんは少し頷いた。笑いはしなかった。ただ頷いた。それだけだった。
家に帰って、缶を開けた。強い香りがした。台湾の、緑茶だった。急須で入れると、少し甘い味がした。
窓から団地の駐車場を見た。陳さんがまだ、花壇のそばのゴミを拾っていた。誰も頼んでいないのに。
私はお茶を飲みながら、思った。
この人は、なぜこんなことをしているのだろう。
答えは出なかった。しかしその晩、私は久しぶりによく眠れた。
語り手:橋本奈緒(財務省官僚)
陳文雄の継続申請書が届いたのは、三度目だった。
私は封筒を開ける前に、少し止まった。なぜそうしたのか、自分でもわからない。習慣が変わっていた、とだけ言える。
最初の申請から九年が経っていた。
九年間、陳文雄は三年ごとに申請書を送ってきた。毎回、書類は完璧だった。預金証明、健康診断書、ボランティア活動の記録、地域自治会の推薦書。不備は一度もなかった。
私は封筒を開けた。
書類は、今回も完璧だった。
預金証明を見ると、残高は八千四百万円になっていた。九年間の生活費で、三千万円以上を使ったことになる。計算すると、年間約三百三十万円。月約二十八万円。贅沢ではない。しかしこの国で、普通に生きることのできる金額だ。
ボランティア活動の記録には、百八十七回の清掃活動参加、三十二回の高齢者介護補助、十四回の地域文化イベントへの参加、と書かれていた。
自治会推薦書には、自治会長の名前があった。陳美玲。陳文雄の妻が、自治会長になっていた。
私は最後のページを開いた。
誓約書の下、備考欄。
今回も、万年筆の文字があった。
「台湾は、まだありますか」
三回とも、同じ文章だった。
私は赤ペンを持った。
九年前、私はこの一行に線を引いた。六年前も、線を引いた。規定にない記載は、削除する。それが手順だ。私はそれを守ってきた。
今回、私は赤ペンを持ったまま、動けなかった。
台湾は、まだありますか。
私は窓の外を見た。霞が関の空は、白く曇っていた。台湾の今の状況は、外務省のデータベースで確認できる。国としての機能は維持されている。しかし陳文雄が生まれた街は、どうなっているのか。彼が二十年間歩いた工場の廊下は、今も存在しているのか。それは私には確認できない。
台湾は、まだありますか。
これは地理的な質問ではない、と私は思った。九年かけて、ようやくそれがわかった。
私は赤ペンをデスクに置いた。
森川が隣のデスクから声をかけた。「どうしました?」
「少し待って」と私は言った。
私は書類を手に取り、継続承認のスタンプを押した。備考欄には、今回、何もしなかった。赤い線も、何の注記も入れなかった。
規定外の記載として処理するか、特記事項として残すか。
私は後者を選んだ。
ファイルを閉じながら、私は思った。来年、法改正の議論が始まる。私はその担当になる予定だ。この備考欄の一行を、どこかに書き留めておく必要がある。条文の中ではなくていい。ただ、記録として。
「台湾は、まだありますか」
これは質問ではなく、報告なのかもしれない。私はまだここにいます、という。
語り手:陳文雄(主人公)
九年が経った。
九年という時間が、何を意味するのか、私にはよくわからない。台湾にいたころ、九年というのはプロセス世代の移行期間だった。10nmから7nm、7nmから5nm、5nmから3nm。九年で、世界は三回変わった。
ここでは、九年で何が変わったか。
廊下が、少し古びた。駐車場の桜が、少し大きくなった。隣の木村さんの腰が、少し曲がった。息子の志遠が、大学院に入り直した。妻の美玲が、自治会長になった。
私は、毎朝廊下を掃いている。
今朝も、五時に起きた。ほうきを持って廊下に出た。最初に来た日と同じほうきだ。柄が少し黒くなっている。竹の繊維が、私の手の脂を吸い込んだのだろう。
廊下を掃きながら、私はN3プロセスのことを考えていた。
もう製造できない技術ではない。設計図は私の頭の中にある。仕様書も、エラーパターンも、改善のための仮説も。それらは九年間、消えていない。ただ使う場所がない。
働くことを、法律が禁じている。
最初の三年間は、この制約が苦しかった。壁のように感じた。私は動く人間だ。動くために生きてきた。工場のフロアを歩き、問題を見つけ、解決する。それが私の存在理由だった。
それを奪われた。
怒りは確かにあった。しかし怒りは長続きしない。怒りを燃料にして生きることは、私には向いていない。
だから私はほうきを持った。
廊下を掃くことは、工場のフロアを点検することと、本質的に違わない。異常を見つけ、取り除く。それだけだ。規模は違う。報酬もない。しかし行為の構造は同じだ。私はそれを発見したとき、少し楽になった。
六年目のある朝、木村さんが廊下に出てきた。
「一緒に掃きましょうか」と、彼は言った。
私は頷いた。
それから木村さんは、週に三度、私と一緒に廊下を掃く。私たちはほとんど話さない。ただ、ほうきを動かす。それで十分だった。
息子が先月、東京大学の研究所の特別研究員になった。
制度の条文には抜け道があった。大学院に入学し直すことで、研究活動が認められた。就労ではなく研究だ、という解釈だ。橋本さんという財務省の担当官が、改正案の中でその解釈を明記してくれた。息子は電話でそれを教えてくれた。
私は、ありがとう、と言った。志遠に言ったのか、橋本さんに言ったのか、自分でもわからなかった。
台湾には戻れない。
これは、もう事実として受け入れている。受け入れるのに、三年かかった。台湾がどうなっているか、細部は知らないままでいることにしている。知れば動きたくなる。動けない場所で動きたくなることは、自分を壊す。
美玲は知っている。彼女は台湾のニュースを毎朝見ている。しかし私には言わない。それが私たちの約束ではないが、そうなっている。
カミュという作家を読んだことはない。
しかし志遠が一度、教えてくれた。シーシュポスという神話の男が、岩を山の上に転がし続ける話だ。岩は必ず転がり落ちる。それでも男は転がし続ける。そして著者は言う、この男は幸福でなければならない、と。
私は、その結論を理解できなかった。
幸福の意味が、わからなかった。
しかし今朝、廊下の端まで掃き終えて、手すりから空を見たとき、私は思った。
岩は重い。岩が重いから、転がす意味がある。軽い岩なら、誰でも転がせる。重いから、自分が転がす価値がある。
これは慰めではない。事実の確認だ。
私はほうきを持ち、廊下を振り返った。朝の光の中で、コンクリートの床が光っていた。埃一つなかった。
明日も、ここを掃く。
それだけが、今の私にわかっていることだった。
語り手:橋本奈緒(財務省官僚)
法改正案の起草に、私は三年かけた。
正式名称は、「第三種公営団地特別措置法の一部を改正する法律案、超長期滞在者の文化的・社会的貢献に関する評価基準の整備について」という。長い名前だ。条文は全部で十二条。私が書いた。
第十条が、最後まで書けなかった。
第十条は、長期滞在者の「日本社会への統合に関する評価基準」を定める条文だ。何年滞在すれば、どの程度日本社会に溶け込んだとみなすか。数値化できない何かを、数値化しようとする条文だ。
私はそれを九ヶ月間、書き直し続けた。
去年の秋、私は神奈川の緑ヶ丘住宅を訪ねた。
公式の視察だった。運用担当として、現場の状況を確認する義務がある。担当官が訪問することは珍しくない。ただ私が自分で志願したのは、初めてだった。
団地に着いたのは、午前九時だった。
駐車場の脇に、白髪の男が立っていた。九年前の申請書に添付されていた写真と同じ顔だった。しかし白髪になっていた。ほうきを持って、花壇の周りの落ち葉を集めていた。
陳文雄だった。
私はしばらく、離れたところから見ていた。彼は気づいていなかった。あるいは、気づいていても関係なかった。ほうきの動きは、一定だった。急がず、遅からず。落ち葉の一枚一枚を、丁寧に集めていた。
私は近づいた。
「陳さんですか」
男は振り向いた。
「はい」と彼は言った。日本語で。
「財務省の橋本です。今日は視察に」
「ああ」と彼は言って、少し頷いた。驚いた様子はなかった。歓迎する様子も、警戒する様子もなかった。ただ頷いた。
「九年間、ありがとうございます」と私は言った。
なぜそう言ったのか、自分でもよくわからなかった。視察のマニュアルにそんな言葉はない。ただ、口から出た。
陳さんは私を見た。
それから言った。
「橋本さんが、志遠の研究を認めてくれた。ありがとう」
息子のことを、彼は覚えていた。
私たちは少し話した。息子のこと、自治会のこと、木村さんのこと。陳さんの日本語は、九年でずいぶん流暢になっていた。しかし彼は多くを語らなかった。必要なことだけ言って、また落ち葉を集め始めた。
視察が終わり、私は電車で霞が関に戻った。
デスクに戻って、第十条の草案を開いた。
私はしばらく画面を見た。それから全部消した。
書き直した。今度は短く書いた。
第十条 超長期滞在者が日本社会に果たした貢献の評価においては、その滞在年数、経済的貢献のみならず、日常的な行為の継続性、および地域社会との関係性を重視するものとする。
まだ足りない気がした。
私は括弧書きで注釈を加えた。
(注:日常的な行為とは、報酬の有無にかかわらず、自発的かつ継続的に行われる行為を指す)
それでもまだ、何かが足りなかった。
私はファイルを保存して、窓の外を見た。霞が関の夕暮れだった。空は少し橙色になっていた。
デスクの引き出しを開けた。
九年前から、そこに保管していた紙がある。陳文雄の最初の申請書のコピー。赤線で消した、備考欄の一行。
「私はまだ台湾人です」
私はその紙を取り出した。
次の継続審査の備考欄には、今年も同じ文章があった。三度目と同じ文章だった。
「台湾は、まだありますか」
私はこの二つの文章を、並べて見た。
九年の間に、問いが変わっていた。
最初の申請で彼は言った。私はまだ台湾人です、と。
それは宣言だった。あるいは、私に向けた確認だった。お前たちが何と呼ぼうと、私は台湾人だ、という。
しかし九年後、彼は聞いていた。台湾は、まだありますか、と。
それはもう、宣言ではなかった。
私は、その問いに今日初めて、答えを書こうと思った。
私は法改正案のファイルを開いた。第十条の後に、附則を加えた。そこに一行、書いた。条文ではない。注釈でもない。ただの一行だ。
「はい、まだあります」
これは法律の言葉ではない。条文として通るはずがない。明日、上司に見せれば、削除されるだろう。
それでも私は、書いた。
画面を保存して、私は荷物をまとめた。窓の外はもう暗くなっていた。
翌朝、神奈川の緑ヶ丘住宅では、午前五時に男が廊下に出た。
白髪の男は、ほうきを手に取った。重さがちょうどよかった。
廊下の端から端まで、約十八メートル。右側に五つのドア、左側に窓が四つ。
男はほうきを動かし始めた。
三〇四号室のドアが、少し開いた。木村孝夫が顔を出した。白髪、丸眼鏡。九年前より少し腰が曲がっていた。彼は自分のほうきを持って、廊下に出てきた。
二人は何も言わなかった。
並んで、廊下を掃いた。
朝の光が、窓から差し込んでいた。台湾の光でも、霞が関の光でもない。この団地の、この廊下の光だった。
岩は重かった。
だから、転がす価値があった。
作品注記
本作は、アルベール・カミュ著『シーシュポスの神話』(1942年)の思想を現代日本の仮想的政策設定に重ね合わせたフィクションである。登場する法律、制度、人物、数値はすべて架空であり、実在の人物・団体・事件とは一切関係がない。ただし、台湾の経済規模、春節期間の訪日統計、日本政府の避難計画等の背景データは、実際の公開情報を参考にしている。
「シーシュポスは幸福でなければならない、と私は考える」
― アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』より