2026年6月上旬、作家・吉本ばななさんのnote有料記事「クラウディクラウドファンディング」(500円、約2万1千字)がX(旧Twitter)で急速に広がり、大きな議論を呼んでいます。発売直後から読了報告や感想が相次ぎ、高評価は1万5千件超に達するなど、異例の反響となっています。記事は、吉本ばななさん本人が家族(特に母親や姉)との複雑で壮絶な関係を赤裸々に綴ったエッセイです。毒親的な家族環境、姉の病気や治療、共依存的な絆、「魂の死」といった重いテーマが中心。収益は全額、姉の治療費に充てられる「クラウドファンディング」的な位置づけで、「クラウディ(曇った)」というタイトルが象徴するように、家族の影と希望を織り交ぜた内容となっています。
吉本ばななさんは、戦後を代表する思想家・詩人・評論家の吉本隆明(1924-2012)の次女として生まれました。父親は1960年代の新左翼運動に大きな影響を与えた知識人として知られ、家族は外から見ればリベラルで知的・先進的な「憧れの家」として映ることが多かったと言います。姉のハルノ宵子さんも文筆家・漫画家として活動しており、家族全体が表現者という特異な環境で育ちました。しかし今回のnoteでは、そうした「公的イメージ」とは対照的な家族の内実——特に母親による精神的DV、姉との共依存的な関係、父親の不在や対応——が詳細に描かれています。note内でばななさんは「父は最後まで戦って、やはり母に殺された」と表現しています。
クラウディクラウドファンディング
私がなんでこんなことを、普通は小説に溶け込ませて同じ境遇の人を救うために物語に乗せて書くようなことを赤裸々に書いているかというと、姉との関係が最終局面に来ているからである。
私は今六十一、姉が六十八、ああ、ついに来てしまったのか、と思う。
それは、母が姉を変えてしまったからだ。
2025年の大晦日、数ヶ月ぶりに実家に行った。
すると、もともと古い家だしものすごく衛生的とは言えなかったが、姉がそこで飲食店を営んでいたために最低限整っていた状況が崩壊していた。
家の中はものすごい匂いがした。ホームレスの方々が百人くらい集っている公園のような匂いだった。この表現でもまだ控えめだと思うくらい。
「ねずみの匂いだよ」と姉は言った。
おそばを食べるのも苦しいくらい、紅白を見るのもきついくらい臭かった。
実家と父の印税と姉自身の書きもので生活は成り立っていくはずだったし、姉本人もそう言っていた。
しかし、そうは行かなかった。二十年に一度の借地権の更新料、病気、骨折、ストーカー事件などなどが重なって姉は疲れ果てて全てが立ちゆかなくなってしまった。
あたりまえだと思う。節税もせず、貯金もせず、書類もちゃんと見ず、なんでも見ないことにして、親が生きていた頃と同じ生活をして、猫には何万円も餌代や病院代をかけ、電気をふんだんに使い、家や近所の居酒屋で思う存分お酒を飲んでいるのだから。そして体があちこち不自由なのだから。
両親がいなくなったとき、姉はきっぱりと「今までありがとう、もう五万円はいいよ」と言った。なんとかやっていけるから大丈夫、と。
それを信じていたら、あるときからひんぱんに無心されるようになった。今月いくら足りない、どうしても足りない、振り込んでくれ、と。
だんだん、その連絡が来るのが憂鬱になってきたのが十年前くらいのことだ。
そして耐えきれず私は前もって月に十万振り込むようになった。医療費や修理費はまた別である。そしてそのお金を姉は猫の治療に全部つぎこんでいるようだった。
借地権の更新料も足りず、父の友人が少しずつ返すことを条件に貸してくれたが、それもほぼ返していない状況だ。
私個人の世界の常識では、人のお金を当てにしないというのは当たり前だ。私なら生活保護を受けられるように自分で周囲をカットしていくだろうと思う。
それから私なら、大したお金にならなくてもペット可の地方の賃貸物件に住むお金を、借地権を売って手に入れて、猫といっしょに越すだろうと思う。
私は逃げ切らないといけない。だからこれを書いている。
そして私の大好きだった姉はもうほとんど死んでしまった。
残っているのは過去にしがみつく亡霊だけだ。
私はこれを書いて、母の罪をはっきりさせたい。
狂ってる、と私は思った。これはもうほんとうに縁を切らねばならない。
そのあと姉は最終的に大きな病院にかけこみで行って、命の危険があると言われた。ねずみ由来の感染症で、全身が蜂窩織炎の状態で、この白血球の数値と電解質の数値だと帰宅したら死ぬ可能性がある、と医者から電話がかかってきた。
それでもお姉さんは帰ると言うのですが、説得できませんか?と。
これで会うのは最後かもしれない、と思って、病院に行った。
どうかお姉ちゃんを救ってください、そしてもう限界でごめんなさい。
マスクをしていてもねずみの匂いがすごく、全ての布がボロボロにされていた。
壁には穴が開き、ねずみが出入りしていた。
姉の手をさすって、私は帰った。姉は今夜死ぬかもしれないな、と思った。
でも翌日も姉は生きていた。電話をしたら、ありがとうとか言ってる。
でも、姉は確かに狂っているけれど、私にはわかるのだ。
この世で私だけにはわかると言っても過言ではない。
母から自分を守ってくれたものは、全て神なのである。今生きているのは、神のようなものたちのおかげなのである。
私たち姉妹は、父がいくらがんばったとしても、長く生きていけるようには育てられていないのである。楽しいことが起きると全て嫉妬と不安でつぶされ、いつも心を殺され、いつも死にたいと思ってきたのである。
母は、自分が死んだら、お姉ちゃんはやっと自由になれるのね、と言っていた。わかってるなら解放してあげたらいいのに、と思ったけれど、不安でどうにもならなかったようだ。
きっと今、姉もそういう気持ちの中で猫だけを支えに生きているのだろう。
そんな育ちでも、私は、生きられる限り生きてやる、そう思う。
ただ、彼女は命をかけて、不安を打ち消すために、狂気で家族を支配した。
だから、自分だけの人生を、楽しく生きることだけが私の復讐だ。
多分この原稿を読んだら、姉は激怒するだろう。そんな謎の自業自得のねずみ病の治療のために、お金まで寄付しちゃった、悔しいと思われる方もたくさんいるだろう。そう思って金額は低めにした。
二万字で五百円なら、国家を代表する小説家の赤裸々なエッセイの価格としては許される範囲だろうと思う。
の孤独死の最終ステージで注目されるのは、「健診で異常が指摘されているのに病院には行かない」「心身の状態に自覚症状が出ていても、あまり気にしない」ということだ。
こういう人は、会社の上司、同僚、警察、民生委員が訪ねていくとすでに死んでいたということになるという。
なぜ、こういうことが「孤独死」につながるのか?
簡単にいえば、自律神経の「交感神経」が全く働いていないことが原因と理由だ。人間は、交感神経が正常に働かなければ、生きている現実との関係が一切、無くなってしまうのだ。
「流し台に洗い物がいっぱい」とか「掃除、片付けをしなくて家がゴミ屋敷と化す」といった家族の問題は、「現実」の中の「ルール」「きまり」「約束」といった「秩序」(規範)が脳の「右脳・虚像」に全く表象しなくなっているということなのである。
日本語(和語)には、交感神経は無い。かろうじて「手足の動き」の交感神経が「孤独死」を防いできた。
吉本隆明の『共同幻想論』(禁制論)(角川ソフィア文庫)を見ると、「遠野物語」に書き残されている古代人は、白日夢を観たり、妄想によって幻覚を見た人は、ちょっとしたことですぐに死んでいたと書かれている。
日本語(和語)の「副交感神経支配」のために、自分の脳(右脳・虚像)に「幻聴」とか「幻覚」の表象をじっと心的に視つづけた人間は、ただ「息を吐くだけ」の副交感神経中心となって、ここで脳内に発生するベータ・エンドルフィンの麻薬の快感に浸って、心室細動がそのまま心停止となって死んでいたのである。
吉本隆明は「彼は、擬似共同幻想を表象していたのである」と言っている。
現実の中の「ゲシュタルト形態」として知覚される社会秩序、共同性をつくる行動の対象の名詞、抽象名詞、形容詞による対象が、何も見えなくなっているということだ。
「決まりごと」「約束ごと」が、「右脳・虚像」に何一つ、かけらもかすかにさえも思い浮ばなくなっている。
それが「掃除をしない」「片付けをしない」という孤独死の最終ステージなのだ。