ありふれた毎日

 プールから上がって、女子更衣室へ向かう。床がプールの水でぬるぬるしているので、転ばないように恐る恐る歩く。

更衣室の入り口にはタオル置き棚があり、右の壁にシャワーが二つ、左の壁にも二つ。左の壁の左四分の一は、女子が着替えるためのカーテン付きの小部屋が四つ並んだロッカールーム。右四分の一の半扉は、女子トイレだ。

棚が新しいものに変わっていたので、つい見とれていた。だからすぐには気づかなかった。脱衣スペースとシャワー室を仕切る扉が、バタンバタンと強い力で開け閉めされていた。

たまたまなのか、着替えている女子は一人もいなかった。けれど、その恐ろしい音を立てていたのは、このプールの、まだ少年のようなスタッフだった。彼は右手を挙げ、空を殴るようなポーズをとると、素早く女子更衣室を出ていった。

そのときはまだ、それほど気にも留めていなかった。ジャージ姿だったので、少年なのか少女なのか、はっきりとはわからない。それでも、私の横を素通りしていく横顔の、もみあげの硬そうな髪質や、眉の太さから、少年で間違いない気がした。

何より、もし女子スタッフなら、あんなに素早く女子更衣室を飛び出すはずがない。せめて「こんにちは」くらいの挨拶を、利用者にするはずだった。

なんのために。さっぱりわからなかった。

着替えを済ませ、受付のある待合室に戻ると、不思議なくらいに静まり返って、利用客は一人もいなかった。ところが、靴を履き替える出口の近くに、六、七人の少年がたむろしていた。

どの子も、鋭い目で私を見ていた。

私は目を合わせないように、「ふん」とそっぽを向いて、さっさと出口を抜けた。

外はまだ明るかった。塩素のにおいが、髪からゆっくりと離れていく。自転車置き場まで歩く間、背中のあたりがむずがゆかった。振り返れば、たぶん誰もいない。だから振り返らなかった。振り返らないことも、いつのまにか上手になっていた。

歩きながら、私は思い返していた。あの扉の音。空を殴る仕草。出口の少年たち。一つ一つは、なんてことはない。誰かに話したところで、「考えすぎだよ」と笑われて終わるだろう。実際、何も起きてはいない。

けれど、と思う。何も起きなかったのは、たまたまではないのかもしれない。

私が「ふん」とそっぽを向けたのは、初めてのことではなかった。終電間際のホームで、街灯の切れた夜道で、深夜のコンビニのレジで、私はもう何百回も、同じように顔を背けてきた。肩の力を抜いて、相手を刺激しないように、けれど隙は見せないように。その加減を、誰かに習ったわけでもないのに、体のほうが先に覚えていた。

つまり私は、ずっと前から気づいていたのだ。気づいていて、気づかないふりをすることだけが、年々うまくなっていた。

これまで自分が無関心だったから見えなかったのだ、と思っていた。たぶん、それは違う。気づかないでいるほうが、ずっと楽だっただけだ。視線の一つ一つを真に受けていたら、私はもう、プールにも、夜道にも、どこへも行けなくなる。

だから私は、見ないことにしてきた。見ないことにして、平気な顔で歩いてきた。

こんなことは、ありふれた毎日なのだろうか。

私は首を傾げた。傾げながら、明日もまた、同じ時間にプールへ来るのだろう、と思った。来て、水をかいて、更衣室で着替えて、出口でまた「ふん」と顔を背けるのだろう。

それが、ありふれている、ということなのだ。