『蛾の譜』 坂口 由美 (著)  形式: Kindle版

 

 

 

 

 

 

「あなたのことを、書きました」

妹が公開した二万字のエッセイが、ネットで静かに燃え広がっていく。亡き父の庭に一人取り残された姉・苑子は、その文章を繰り返し読むうちに、ある違和感に気づき始める――言葉が、読むたびに、少しずつ姿を変えていくのだ。

これは記憶の誤りなのか。それとも、誰かが今も、自分の物語を書き換え続けているのか。

話された言葉が、書かれた言葉へと姿を変えるとき、そこに残るのは赦しか、それとも完成という名の死か。姉妹の間に横たわる沈黙を、蛾の羽音だけが知っている。


「日本語はいかにして成立したか」

日本語の構造は精神を規定するか ―― ある言説の批判的検討

はじめに

近年、日本語(和語)の構造的特徴が、日本人の思考様式のみならず精神疾患の発生をも規定する、という主張をしばしば目にする。その典型は次のような筋立てである。日本語は主観・情意の表現に偏り客観的記述に乏しい、ゆえに話者は「外の現実」を客観的に把握できず、対象との距離をとれぬまま不適応に陥り、ついには精神の病に至る――。この言説は、国語学者大野晋の堅実な言語論を出発点に置くために、一見すると学問的な裏づけを備えているように見える。

本稿は、この言説そのものを分析の対象とする。検討するのは二点である。第一に、言説の基盤をなす大野の言語論はどこまで妥当か。第二に、その言語論を精神病理の説明へと拡張する過程で、いかなる論理的飛躍が生じているか。結論を先取りすれば、言語論の部分には学ぶべき知見が含まれる一方、精神病理への一般化は実証的根拠を欠き、かつ患者への偏見を再生産するものであって、退けられねばならない。

 

第一章 検討対象たる言説の骨格

まず、対象とする言説の論理構造を三段に整理しておく。

第一段は言語学的命題である。日本語(和語)は、形容詞の活用でいえば、状態を表す「ク活用」(高く・広く・少なく)よりも、情意を表す「シク活用」(美しく・悲しく・嬉しく)に表現の重心がある。客観的事態を切り出して概念化する語彙も乏しく、たとえば「広い」に対応する和語は一語しかないのに対し、漢語では「博・汎・宏・弘・寛・闊」と細かく分化する。ゆえに日本語は主観の表現に厚く、客観的記述に薄い、というのである。

第二段は、この言語的特徴を話者の認知様式へと移し替える。客観表現の語彙を欠く話者は、外界を精密に観察し概念化する意識を育てられず、対象との距離をとれぬまま、好悪・敵味方といった情緒的判断にとどまる、とする。

第三段は、この認知様式を精神病理へと接続する。距離をとれない意識は対人不安や強迫観念を生み、やがて現実との不適応=病理に至る、というのである。この第三段において、言説はクレペリンやブロイラーら古典的精神医学の用語を援用し、あたかも臨床的裏づけがあるかのように装う。

以下、第一段の妥当性(第二章)と、第二・三段の飛躍(第三章)を順に検討する。

 

第二章 第一段の検討 ― 大野晋の言語論はどこまで妥当か

第一段の言語学的命題は、その多くを大野晋の議論に負っている。ここはおおむね傾聴に値する部分である。

大野は、日本語の文法構造が、動作の主体(主語)を真っ先に確定するヨーロッパ語とは異なる原理に立つことを論じた。古代語の「係り結び」は、本居宣長が法則化したように、「ぞ・なむ・や・か」が連体形で、「こそ」が已然形で結ばれる構文であり、室町期に衰退したのち、「は」と「が」の使い分けがこれに代わった(注1)。松下大三郎以来の研究が示すように、「が」は未知・新情報を、「は」は既知・旧情報を主題として提示する。すなわち日本語の構文は、主体を最初に立てるのではなく、新旧の情報をどう配置するかを軸に組み立てられる。三上章が「主語」概念の輸入を斥けたのも、同じ含意によるものであった。

形容詞の活用について、ク活用が状態を、シク活用が情意を担うという区別は古典文法の常識であり、和語と漢語のあいだの語彙密度の差も事実として認められる。さらに大野は、内と外の区別が日本語の根に深く関わることを、瓜子姫の説話を手がかりに論じた。家の「外」から来る瓜子姫や天邪鬼は畏怖の対象であり、「内」に取り込まれた存在は殺害の対象ともなる。この構造が、親しい者には尊大に振る舞ってよいという待遇表現の原型につながる、というのである。これらは言語史・説話研究として十分に成り立つ。

 

しかし、ここで一つの留保が要る。「客観的記述の語彙が相対的に乏しい」ことと、「話者が客観的に思考できない」こととは、論理的に別の事柄である。語彙の粗密は、必要に応じて漢語や翻訳語を取り込むことで現に補われてきたのであり、大野自身がきわめて分析的な日本語の散文でこれらを論じている事実が、何よりその証左である。ある言語が特定の概念を一語で持たないことは、その話者がその概念を思考しえないことを意味しない。第一段の命題は、語彙構造の記述としては妥当だが、それを「思考能力の制約」と読み替えた瞬間に、すでに一歩を踏み外している。

 

第三章 第二・三段の検討 ― 精神病理への拡張をめぐって

踏み外しが決定的になるのは第二・三段である。

第一に、言語が思考や世界認識を決定するという発想――言語相対論のいわゆる強仮説(サピア=ウォーフ仮説の強い形)――は、現代の言語学・心理学では支持されていない(注2)。言語が認知に一定の影響を及ぼす弱い形は議論されるが、「日本語話者は客観的に思考できない」といった決定論は、経験的にも理論的にも成り立たない。

第二に、援用される精神医学の用語と理解が、現在の医学とずれている。この言説が用いる「精神分裂病」は、二〇〇二年に日本精神神経学会が「統合失調症」へと改称した歴史的名称であり、患者への偏見を助長するとして退けられた経緯をもつ(注3)。統合失調症の成因は、遺伝的要因・神経生物学的要因・環境要因が複合する多因子モデルで理解されており、「日本語への不適合」という単一の言語的原因で説明できるとする臨床的根拠は存在しない。クレペリンの「早発性痴呆」やブロイラーの連想弛緩の概念を引いても、それは古典期の枠組みであって、現行の操作的診断基準を裏づけるものではない。

第三に、そして最も問題なのは、疾患を「社会犯罪」へと直結させる記述である。統合失調症をもつ人の大多数は他者に危害を加えることなく生活しており、精神疾患と暴力とを短絡させる見方は、実証的に支持されないばかりか、患者を加害者として描く典型的なスティグマにほかならない(注4)。言説はここで、笠原嘉が記述したような、誰もが経験しうる対人不安の心性を、いつのまにか重篤な疾患や犯罪と地続きのものとして描き出す。記述の対象が、論証を経ぬまますり替わっているのである。

要するに第二・三段は、第一段の堅実な言語論を“てこ”として、検証不能な領域へ議論を運び去る。語彙構造から認知の制約へ、認知の制約から疾患へ、疾患から犯罪へと、各段の接続部はいずれも論証されないまま比喩的に飛躍している。

 

むすび

本稿は、日本語の構造を精神病理の原因とみなす言説を検討し、その論理が、大野晋の妥当な言語論を出発点に置きながら、語彙構造を思考能力へ、思考能力を疾患へ、疾患を犯罪へと、論証を欠いたまま横滑りさせるものであることを示した。学ぶべきは前半の言語史的知見であり、退けるべきは後半の一般化とスティグマである。「日本語と思考様式」という問い自体は正当で豊かなものだが、それを病理の語彙で語ることは、学問的にも倫理的にも慎まれねばならない。言語の特質は、話者を病へと追い込む宿命ではなく、記述と翻訳によって不断に補われ拡張されていく可塑的な資源として捉えられるべきである。

 

参考文献

大野晋『日本語はいかにして成立したか』中央公論新社(中公文庫)

大野晋『日本語の文法を考える』岩波書店(岩波新書)

三上章『象は鼻が長い ―― 日本文法入門』くろしお出版

 

笠原嘉『青年期 ―― 精神病理学から』中央公論社(中公新書)