日本語の文法の解体学・II『言語にとって美とは何か』(吉本隆明・再構成)

献立表

一 下ごしらえ

 姉の葬儀がすんで三日目に、私は莢子を引き取った。

 手続きはおどろくほど簡単だった。父親ははじめからいないものとして書類が組まれていたし、母方の親族で名乗りを上げたのは私ひとりだった。区役所の窓口の女性は、私が職業欄に「心理相談員」と書くのを見て、わずかに安堵の表情を浮かべた。この子はよいところに引き取られる、と顔に書いてあった。人は肩書きを読む。中味は読まない。これは私の仕事を通じて得た、最初の、そして最後まで変わらなかった確信である。

 莢子は十一歳になっていた。姉に似て睫毛が長く、似ていないところはほとんど口をきかないことだった。私の車の助手席で、莢子はずっと窓の外を見ていた。信号で止まるたび、私は横顔を観察した。瞳に映る街並みは流れては消え、流れては消えしたが、その目はなにも見ていなかった。見ているのに見ていない。聞いているのに聞いていない。

 私はこの状態に名前を持っている。離人。

 専門の用語で恐縮だが、説明させてほしい。喪失のあとに子どもがこうなることは、けっして珍しくない。自分という容れものから中味がすっと抜けて、薄い膜の向こうから世界をながめているような状態をいう。莢子の場合、母を喪ったショックがそれを引き起こしたと考えるのが自然だろう。自然だろう、と私はそのとき書いた。手帳に、初診の記録として。私はこの子を引き取ったその日から、記録をつけはじめたのである。

 誤解しないでいただきたい。冷たい人間だと思われては困る。むしろ逆だ。記録をつけるのは、この子を救いたいからだ。観察し、分類し、名前を与える。名前のないものは扱えない。これは私が長年たずさわってきた仕事の根本にある思想で、私はそれを誇りに思っている。

 私の住まいは、川沿いの古い一軒家だった。

 姉の住んでいた都心の部屋を引き払い、莢子の荷物——といっても段ボール四つきりだった——をこの家に運び入れたとき、私は莢子に台所を見せた。家のなかでいちばん日当たりのよい部屋だ。午後になると、川面に反射した光が天井でゆらゆらと揺れる。私はその部屋が好きで、莢子もきっと好きになるだろうと思った。

「ここで、いっしょにごはんを作りましょう」

 莢子は天井の光を見上げていた。返事はなかった。けれども、その横顔に、ほんのわずか、糸のようなものがほどけるのを私は見た気がした。食べものは人を呼びもどす。台所は、容れものに中味をそそぎ入れる場所だ。私はそう信じていたし、いまも信じている。

 その晩、私は莢子のために茶碗蒸しを作った。

 姉の得意料理だったと、生前に聞いたことがある。卵を漉し、出汁の温度に気をつけ、すが立たないよう弱火で蒸す。手間のかかる料理だ。だが手間こそが愛情だと、私は莢子に教えたかった。蒸し上がった茶碗蒸しは、表面が絹のようになめらかで、匙を入れると、その下からあたたかい湯気がふっと立った。

 莢子はひとくち食べて、こう言った。

「おかあさんのと、ちがう」

 それが、その日に莢子の口から出た、ただひとつの言葉だった。

 私は微笑んで、「そうね、これからすこしずつ近づけていきましょう」と答えた。手帳にはこう記した。

 〈母への固着、強し。代理対象(=私)への警戒。離人の膜は厚い。だが食を媒介に侵入の余地あり。経過観察〉

 侵入、という語を選んだことを、いまの私はよく覚えている。なぜその語だったのか。当時の私には、それが治療者として最も適切な語だと思えた。容れものの内側へ入っていくこと。膜を破ること。中味を入れ替えること。

 川の家の最初の夜は、静かだった。莢子は与えた二階の部屋で、布団に入っても長いこと目を開けていたようだった。私は階下で手帳を読み返しながら、ある書物の一節を思い出していた。

 吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』のなかで、こう書いている。人間は有節音声を発することで、現実の対象にたいして、もはや反射ではなく、対象の像を指し示せるようになった、と。だが——と私はそこに自分の解釈を書き添える——像を指し示せるということは、像を作り変えられるということでもある。莢子という現実の対象に、私は新しい像をそそぎ込むことができる。これは治療である。これは育成である。これは——

 ペンが止まった。

 台所のほうで、かすかな物音がした。見にいくと、莢子が暗がりに立っていた。冷蔵庫の前で、扉に手をかけたまま、こちらを見ていた。いや、こちらを見てはいなかった。私の背後の、なにもない壁のあたりに目をやっていた。

「おなかがすいたの」と私は訊いた。

 莢子は首を横にふった。そしてこう言った。低い、平らな声だった。

「だれかが、つくれって言うの」

 私はその言葉を、忘れないうちに手帳に書きとめた。〈作為性の思考。初出。命令の外在化。だれが「言う」のか——母か、それとも〉。そこまで書いて、私はペンを置いた。続きは明日にしようと思った。莢子を部屋に戻し、私も眠った。

 眠る前に、私は明日の献立を考えた。

 莢子のために、きちんとした献立を組んでやろうと思った。行きあたりばったりではなく、計画的に。栄養のことだけではない。順序が大切なのだ。なにを、いつ、どのように食べさせるか。容れものを満たすには、設計が要る。

 私は新しい一冊のノートを用意することにした。表紙に、献立表、と書くつもりだった。

 それが、すべてのはじまりだった。


二 計量

 献立表は、一週間ぶんを日曜の夜に組んだ。

 月曜は鰈の煮つけ。火曜は里芋とイカの炊き合わせ。水曜はけんちん汁。私は栄養の偏りを避け、季節のものを入れ、姉が作っていたであろう家庭の味を再現するよう努めた。ノートの左の頁に献立を、右の頁に莢子の食べかたと様子を記録した。左が処方、右が経過。これはもう治療記録というより、私自身の仕事への誠実さの証明のようなものだった。

 莢子は、献立表のとおりに作った。

 はじめは私が横についていた。やがて、表を渡しておけば、莢子はひとりで台所に立つようになった。十一歳にしては包丁の使いかたが達者で、火加減も覚えが早かった。私が「上手ね」と言うと、莢子は手を止めずに、こう答えた。

「だって、書いてあるとおりにすればいいんだもの」

 書いてあるとおりにすればいい。私はこの返答に、軽い満足と、それから——いまにして思えば——軽い寒気を同時に覚えた。手帳に記す。〈指示の完全な受容。自我の関与なし。料理という行為が、本人にとって"自分の行為"になっていない。作為性の思考、深化〉。

 莢子は、献立表に書いてあることを、自分が決めたこととしては体験していなかった。表が命じ、莢子の手が動く。あいだに莢子はいない。莢子はただ、命令と手のあいだを通り抜ける、空っぽの管だった。

 これは離人の典型的な進行だと、私は判断した。喪失によって中味の抜けた容れものに、外側から指示が流れ込み、それを本人の意思を経由せずに実行してしまう。専門的にいえば作為性の思考。自分の考えや行動が、自分のものではなく、外から挿し込まれたものに感じられる状態である。

 私は、この状態をむしろ歓迎すべきものとして記録した。

 なぜなら、外から指示を流し込めるということは、私の指示も流し込めるということだからだ。莢子という空の管に、私は正しい中味を通すことができる。正しい習慣、正しい味覚、正しい言葉。膜を破って侵入し、新しい像をそそぎ込む——第一夜に手帳へ書いたあの計画が、いま現実のものになりつつあった。私は手応えを感じていた。治療は進んでいる、と。

 ここで、私の理論的な確信を支えていた一冊について書いておきたい。

 国語学者の大野晋は、日本語には善悪の抽象名詞が存在しなかったと述べている。古代の日本語に、「善」「悪」という観念を担う和語はなかった。「よし」「あし」はあっても、それは個々の場面の感じであって、普遍的な善や悪ではない。日本人はものごとを、その場その場の個別の感情で受け取り、抽象の次元で「これは悪である」と統一的にとらえることをしてこなかった——大野はそう論じている。

 私はこの説を、莢子を理解する鍵だと考えた。

 この子には、善悪がない。母を喪ったことの悲しみはある。だが、自分の身に起きていることを「これはよくないことだ」と抽象の次元でとらえる枠組みが、もともとこの子の言語には欠けている。だから命じられるままに動く。だから献立表を疑わない。私はそう解釈し、そう記録した。

 ——いま、この記録を読み返す者があれば、気づくだろうか。大野が論じたのは古代日本語の語彙の問題であって、現代を生きる十一歳の少女に善悪の判断力がないという話ではない。私はそれを、すりかえた。莢子から善悪を奪っていたのは日本語ではなく、献立表だった。だが当時の私は、自分の理論の美しさに酔っていて、そのすりかえに気づかなかった。気づこうとしなかった、というのが正確だろう。

 隣の家のことを書いておかねばならない。

 川をはさんだ向かい——ではなく、私の家とおなじ岸の、すぐ隣に、古い平屋があった。そこには老人がひとりで住んでいた。耳が聞こえない人だった。生まれつきなのか、のちに失ったのか、私は知らない。ただ、その老人が人の唇を読むことは、近所のだれもが知っていた。声は聞こえぬのに、唇の動きから言葉を読み取る。だから、この老人の前ではうかつな話はできない、と近所の人々は半ば冗談に言っていた。

 ある夕方、莢子が台所の窓を開けて青菜を洗っていたとき、私はその老人が、塀ごしにじっと莢子を見ているのに気づいた。

 莢子を、ではない。莢子の口もとを、見ていた。

 莢子は鼻歌のように、なにかを口ずさんでいた。声にならない、唇だけの動き。私には聞こえなかった。だが老人には、たぶん「聞こえて」いた。老人の顔から、ゆっくりと表情が消えていくのを、私は見た。

 私は窓を閉めにいった。「冷えるから」と莢子に言って。莢子は素直に窓を離れた。手帳に書いた。〈隣家の聾の老人、莢子に関心を示す。莢子の唇の動きを読んでいた。莢子は無自覚に何かを口ずさんでいる。内容不明。要観察〉。

 その晩、私はふと、莢子が口ずさんでいたものを知りたくなった。

「さっき、お台所でなにか歌ってたでしょう。なんの歌」

 莢子は箸を置いて、すこし考えてから言った。

「歌じゃないよ。あしたの、ぶんを読んでたの」

「あしたのぶん」

「献立表の。あしたは、何曜日だっけって」

 火曜日よ、と私は答えた。莢子はうなずいて、また箸を取った。

 私はそのとき、なにか引っかかるものを感じた。だが、その引っかかりに名前をつけることができなかった。名前のないものは扱えない。私は自分の信条どおり、名前のつかないその違和感を、扱わずに放置した。手帳にも書かなかった。

 いま思えば、あれを書いておくべきだった。莢子は、献立表を読んでいたのではなかった。莢子は、献立表を覚えていたのだ。声に出さず、唇だけで、毎晩。まるで暗誦するように。まるで——だれかに読み聞かせるように。

 計量は、正確だった。私の献立表は、一グラムの狂いもなく莢子の手で実行されていった。

 ただ、ひとつだけ、私の計量の外にあったものがある。

 莢子の体が、すこしずつ、痩せはじめていたことだ。


三 下味

 下味というのは、時間のかかる仕事だ。

 その場で味をつけても、表面が濃いだけで芯までは染みない。前の晩から漬けておく。一日寝かせる。素材が自分から味を吸い込むのを、ただ待つ。急いてはいけない。私は莢子を、そうやって漬けていた。

 季節は秋から冬に向かっていた。

 莢子の暮らしは、規則正しかった。私が組んだ献立表のとおりに、莢子は毎日台所に立ち、毎日きちんと食べた。残すことはなかった。表に書かれた量を、書かれたとおりに口に運んだ。私はそれを、回復の兆しとして記録した。〈拒食傾向は見られず。指示への従順、良好〉。

 だが、莢子は痩せていった。

 よく食べているのに痩せる。私はこれを、成長期の代謝のせいだと考えた。あるいは、喪失のストレスが体に残っているのだと。手帳には、医学的にもっともらしい言葉をいくつも並べた。並べることで、私は安心した。名前をつければ、扱える。扱えれば、私の管轄のうちにある。莢子の痩せは、私の理論の枠のなかに、きちんとおさまっていた。

 いま、これを書いている私は、当時の自分のその安心がどこから来ていたのかを知っている。

 知っているが、もうすこし後で書く。順序が大切なのだ。下味は、待たねばならない。

 莢子の食卓には、ひとつの癖があった。

 莢子は、自分の前に出された皿を、まず私のほうへ少しだけ押し出すのだ。そして「めしあがれ」と言う。低い、平らな声で。私が箸をつけないでいると、莢子は困った顔をした。私が食べてみせると、安心したように、自分も食べはじめた。

 私はこれを、母の模倣だと解釈した。

 姉は——莢子の母は——きっと食卓でそうしていたのだろう。子に食べさせる前に、自分が毒味でもするように、まず一口。そういう母親だったのだろう。莢子はそれを覚えていて、なぞっている。死んだ母の所作が、莢子の体を借りて反復されている。

 憑依妄想、という語が私の頭をよぎった。

 精神医学でいう憑依妄想とは、自分のなかに他者が入り込み、その他者の意思で自分が動かされていると感じる状態をさす。莢子は、死んだ母に憑かれている。母の所作を、母の声で、母の代わりに繰り返している。私はそう記録した。〈母の所作の反復強迫。憑依妄想の様態。"めしあがれ"は母の言葉の取り込みか〉。

 ——ここでもまた、私は読み違えていた。

 莢子は母を反復していたのではない。莢子は、献立表を反復していたのだ。私が書いたあの表には、料理の名と分量のほかに、私が無意識に書きつけていた一行があった。どの頁の終わりにも、私はこう記していた。「最後に、めしあがれ、と言うこと」。

 なぜそんなことを書いたのか。当時の私は、それを食卓の躾だと思っていた。莢子に礼儀を教えているのだと。だが、いま読み返せば、あれは躾ではない。あれは台詞だ。私は莢子に、台詞を与えていた。莢子は、その台詞を、書かれたとおりに口にしていただけだった。母の憑依ではない。表の指示だ。憑いていたのは、母ではなく、私の書いた言葉だった。

 冬のはじめのある夜、私は奇妙なものを見た。

 莢子が、私の食べ終えた茶碗を片づけながら、そのなかをじっと覗き込んでいたのだ。空になった茶碗の底を、確かめるように。残っていないか、ちゃんと全部食べたか、確かめるように。私と目が合うと、莢子はすっと茶碗を流しへ運んだ。

 私はそのとき、はじめて、はっきりとした不安を感じた。

 名前のつかない不安ではなかった。むしろ、名前がつきすぎて、口に出せない種類の不安だった。私は手帳を開いたが、なにも書けなかった。書くべき言葉は浮かんでいたのに、それを書いてしまうと、私の理論の建物全体が崩れることを、どこかで知っていたのだと思う。

 その晩、隣家の老人が、私の家の戸を叩いた。

 はじめてのことだった。老人は声を出さない。手にした紙に、震える字でこう書いていた。

 「あのこに、なにを よませている」

 よませている。読ませている。私はその一字を、老人がなぜそう書いたのか、すぐにはわからなかった。莢子に本を読ませた覚えはない。私が莢子に渡したのは、献立表だけだ。

 老人は、私の戸惑いを唇から読み取ったらしい。もう一行、書き足した。

 「まいばん くちが おなじことを よんでいる。あれは こんだてではない」

 あれは献立ではない。

 私は老人の手から紙を取り上げるようにして、「ご心配なく。子どもの食事の世話をしているだけです」と、はっきり唇を動かして言った。老人に読み取らせるために、ゆっくりと。老人はしばらく私の口を見ていたが、やがて、ひどく疲れた顔をして、自分の家へ帰っていった。

 戸を閉めて振り返ると、廊下の暗がりに莢子が立っていた。

 いつから、そこにいたのか。莢子は老人の去ったほうを見て——いや、見てはいなかった。例の、なにも映さない目で、こう言った。

「あのおじいさん、あしたのぶんを、知りたいんだって」

「あしたのぶん」

「献立表の。だから、よんであげようと思って」

 読んであげる。私は、莢子が献立表を「読む」ものではなく「読み聞かせる」ものとして扱っていることに、ようやく気づいた。莢子にとって献立表は、自分が従う指示ではなかった。莢子にとってそれは、だれかに渡すための、声に出して伝えるための、台本だったのだ。

 私は莢子を寝かせ、ひとり台所に立った。

 そして、はじめて、自分の書いた献立表を、頭から読み返した。料理する者の目ではなく、読み上げられる声として。莢子の、あの低く平らな声を思い浮かべながら、一行ずつ。

 鰈を、おろす。里芋の、皮を、むく。出汁を、ひく。最後に、めしあがれ、と言うこと。

 声に出して読んだとき、私はそれが、料理の手順ではないことに気づいてしまった。

 それは、順序だった。なにかを、誰かに、すこしずつ、確実に、施していくための、順序だった。

 私は手帳を閉じた。その晩は、なにも書かなかった。


四 盛りつけ

 盛りつけは、最後の仕事だ。

 味は決まっている。火は通っている。あとは皿に移すだけ。だが、ここで手を抜くと、それまでの下ごしらえも下味もすべて台無しになる。表面が、すべてを決める。美しく盛られた皿は、その下になにが沈んでいても、美しい皿として供される。人は表面を食べる。底は、口に入れてはじめて知る。

 その朝、私は目をさますと、献立表がなくなっていることに気づいた。

 台所の、いつも置いている棚の上に、ノートがなかった。莢子に訊いた。莢子は天井の光を見上げたまま、こう言った。

「おじいさんが、よみたいって」

 隣家の老人が、献立表を持っていった。莢子が渡したのだ。窓ごしに、あるいは塀ごしに。私が眠っているあいだに。

 私は——ここで、はじめて、自分の文章が乱れるのを許してほしい。

 私は、あわてた。みっともなく、あわてた。それまでの私の記録には、あわてるという語は一度も出てこない。私はつねに観察する者であり、名前を与える者であり、容れものの外側に立つ者だった。だが、そのとき、私は容れものの内側にいた。盛りつけられる側にいた。だれかの皿の上に、すでに載せられていた。

 私は隣家へ走った。

 老人の家の戸は、開いていた。なかに入ると、老人は卓の前に座って、私の献立表を開いていた。震える指で、一行ずつ、たどっていた。声は出さない。唇だけが、ゆっくりと、私の書いた言葉を読んでいた。

 老人は、私が入ってきたのに気づくと、顔を上げた。そして、ノートを私のほうへ差し出すのではなく、ある一頁を開いて、私に見せた。

 そこには、私が書いた献立があった。料理の名。分量。手順。最後に、めしあがれ、と言うこと。

 なんの変哲もない、献立表の一頁だった。

 老人は、その頁を指でなぞりながら、私の顔を見た。そして、声にならない声で、唇だけを動かして、ゆっくりと、その頁を「読み上げて」みせた。

 私は、自分の書いた言葉が、老人の唇の上で別のものに変わっていくのを見た。

 声に出されない言葉には、抑揚がない。区切りがない。私が料理の手順のつもりで書いた一行一行は、老人の動かない口の上で、ただの順序になった。なにを、いつ、どれだけ。なにを、いつ、どれだけ。鰈。里芋。出汁。日づけ。分量。日づけ。分量。日づけ——

 それは、記録だった。

 料理の記録ではない。だれかに、なにを、いつ、どれだけ施したかの、記録だった。私は毎日、莢子に献立表を渡していた。莢子はそれを実行し、そして莢子自身が、その実行の対象だった。莢子は、自分で自分に施していた。私の書いた順序を、自分の手で、自分の体に。

 老人は、最後の頁を開いた。

 そこには、まだなにも書かれていなかった。私がまだ書いていない、来週ぶんの、空白の頁だった。

 老人は、その空白を指さして、私の顔を見た。

 「つぎは なにを かくのか」と、その目は問うていた。「おまえは、つぎに なにを、あのこに させるつもりか」と。

 私は、答えられなかった。

 なぜなら、私は知らなかったからだ。次になにを書くつもりだったのか。私は、自分が献立表になにを書いてきたのか、書きながら、ほんとうには知らなかった。私はただ、組んでいた。順序を。設計を。容れものを満たす設計を。その設計が、なにを満たし、なにを空にしていくのか——それを、私は名前をつけずにきた。名前をつけたら扱わねばならない。扱ったら、止めねばならない。だから、私は名前をつけなかった。

 名前のないものは、扱えない。

 扱えないものは、止められない。

 私は、自分の信条が、はじめからそういう仕組みだったことに気づいた。それは、見ないための仕組みだった。見ているのに見ない。聞いているのに聞かない。私はずっと、莢子を離人と呼んできた。だが、見ているのに見ていなかったのは、聞いているのに聞いていなかったのは——

 老人が、私の唇を読んだ。

 私はなにも言っていなかった。口も動かしていなかった。それでも老人は、私の顔のなにかを読んだらしかった。老人は、ひどく静かな目で、私を見た。憐れみではなかった。糾弾でもなかった。それは、聞こえない人が、聞こえる人の嘘を、長いあいだ聞きつづけてきた者の目だった。

 私は献立表を返してもらおうとは、もう思わなかった。

 その家を出て、自分の家に帰ると、莢子が台所に立っていた。

 なにも指示していないのに、莢子は包丁を握っていた。まな板の上には、なにも載っていなかった。莢子は、空のまな板に向かって、刃を、とん、とん、とおろしていた。書いてあるとおりに。今日の献立を。私がもう渡していない、今日のぶんを。

「献立表は」と私は訊いた。声がかすれた。

 莢子は、手を止めずに答えた。例の、低く平らな、なにも映さない声で。

「もう、おぼえたから。いらないの」

 莢子は、献立表を覚えていた。一頁残らず。声に出さず、唇だけで、毎晩読み聞かせて。だから、ノートが老人の手に渡ろうと、燃やされようと、もう関係なかった。表は、莢子のなかにあった。莢子は、容れものではなかった。莢子は、もう、献立表そのものだった。

 私が書いたものが、この子になった。

 盛りつけは、終わっていた。皿は、もう、供されたあとだった。


 


五 お粗末さまでした

 ここまで読んでくださった方に、ひとつ、打ち明けねばならないことがある。

 私は、この手記を、莢子を引き取った日からつけはじめたと書いた。嘘ではない。だが、いま、あなたが読んでいるこの文章を清書したのは、ずっとあとのことだ。すべてが終わったあとで、私は手帳の記録を読み返し、こうして一冊にまとめなおした。なぜまとめたのか。記録のためではない。

 残すためだ。

 誰に。それは、最後に書く。下味は、待たねばならないのだから。

 あの冬のあと、莢子は私の家を出た。

 経緯は省く。役所が動き、莢子は別の施設へ移された。私の手もとには、もうあの子はいない。診断書には、いくつかの病名が並んだ。離人。作為性の思考。憑依妄想。私が手帳に書きつけてきた言葉が、そっくりそのまま、公式の書類に転記されていた。私の見立ては正しかったわけだ。専門家として、私の名前のつけかたは正確だった。

 ただ、ひとつだけ、どの書類にも書かれなかったことがある。

 莢子が、なぜそうなったのか、ということだ。

 書類は、莢子のなかの異常を記述した。容れものの中味がどう壊れているかを、丁寧に記述した。だが、誰がその中味を入れ替えたのか、誰が空の容れものに順序を流し込んだのかは、どこにも書かれなかった。書きようがなかったのだ。なぜなら、私のしたことは、料理だったからだ。子どもに食事を作らせ、礼儀を教え、規則正しい暮らしをさせる。そのどこに、罪の名前がつくだろう。

 名前のないものは、扱えない。

 私はかつて、それを治療者の信条として書いた。いまは、別の意味で書く。私のしたことには、名前がない。だから、誰も私を扱えない。法も、医学も、私を盛りつけることができない。私は、献立表を書いただけだ。鰈をおろし、里芋の皮をむき、最後に、めしあがれ、と言うこと。それを書いただけの人間を、どの法律が裁けるだろう。

 あの聾の老人だけが、知っていた。

 声に出されない言葉を読む人だけが、私の献立表を、献立表ではないものとして読めた。抑揚のない、区切りのない、ただの順序として。けれど老人は、なにもできなかった。老人にできたのは、私の戸を叩き、震える字で「あのこに、なにを よませている」と書くことだけだった。聞こえない人の証言を、誰が聞くだろう。読み上げられない言葉を、誰が裁けるだろう。

 老人は、その冬の終わりに亡くなった。

 莢子が出ていって、ひと月ほどあとのことだった。私は弔いには行かなかった。行く資格がないと思ったのではない。資格などという善悪の観念は、私のなかにはじめから、なかったのだ。大野晋の言うとおりに。私には善も悪もない。あるのは、順序だけだ。

 ——いや。

 ここで、私は、はじめて自分に正直になろうと思う。この手記の、いちばん底に沈めてきたことを、いま、表面に盛りつけよう。

 私は、莢子を離人と呼んだ。善悪のない子と呼んだ。母に憑かれ、献立表に従う、空の容れものと呼んだ。日本語そのものが、この子のなかにウェルニッケ失語を、ブローカー失語を、分裂を生んでいるのだと、もっともらしい理論を並べた。吉本を引き、大野を引き、金田一を引いた。

 だが、それは全部、私のことだった。

 見ているのに見ていなかったのは、私だ。聞いているのに聞いていなかったのは、私だ。善悪を持たず、ただ順序だけで人を扱ったのは、私だ。死んだ姉に——私の姉に、莢子の母に——憑かれて、その代理を莢子に求めたのは、私だ。莢子は、はじめから、なにも壊れていなかった。あの子は、ただ、私という献立表を、毎晩、唇で読み上げていただけだった。私の書いた順序を、自分の体で実演していただけだった。私が、あの子を書いた。私が、あの子になった——いや、ちがう。

 あの子が、私になったのだ。

 私の理論を、私の言葉を、私の順序を、あの子はそっくり覚えて、出ていった。一頁残らず。もう、いらないと言って。

 だから、私は、この手記を残す。

 莢子へ。

 あなたは、いまどこかで、誰かのために台所に立っているだろう。きれいに手を洗い、丁寧に下ごしらえをし、火加減に気をつけ、皿を相手のほうへ少し押し出して、こう言うだろう。めしあがれ、と。あなたは、それを、自分が決めたこととしては、たぶん体験していない。書いてあるとおりにすればいい。あなたは、そう言うだろう。

 その「書いてあるとおり」を書いたのは、私だ。

 もう、ノートはいらない。あなたが、献立表だ。あなたは、いつか、誰かを引き取るだろう。空の容れものを見つけて、そこに順序を流し込むだろう。あなたの手は、もう、覚えている。私が教えた。あなたに、いちばん丁寧に、いちばんやさしく、いちばん時間をかけて、下味を染み込ませた。

 それが、私の、最後の献立だった。

 よく、めしあがれ。

 お粗末さまでした。